「聖 書」
わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知の通りです。そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。
(テサロニケの信徒への手紙 1章5~10節)
説 教 「信者の模範」
パウロは本日の御言葉の中で、「あなたがたはひどい苦しみの中で、主に倣う者となり、すべての信者の模範となるに至った」と語っている。パウロの語る「信者の模範」とは具体的には、どのようなことなのだろうか。それは勿論、「主に倣う者となっている」ということであろうが、具体的には先週にお語りした「信仰によって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する、希望をもって忍耐している」ということでもある。しかし文に表れていない事も考えられる。テサロニケの信徒への手紙の全文に目を通すと、「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。」(4:9)とある。パウロは愛に励まされていた。「信者の模範」とは「主と共に在る苦しみの中で、なお人を愛し、互いに愛し合う信仰の姿」のことをパウロはここで語っているとも考えてもよいかもしれない。しかし、パウロが本日の御言葉の中で、「わたしたちに倣う者となり」と語っている以上、パウロたちが歩んできた信仰の姿も考えておかなくてはならない。ここからは「解き明かし」というよりも、パウロのテサロニケの信徒に伝えておきたかった本意を想像して語ることをお許し願いたい。パウロはテサロニケの手紙を異邦人伝道の初期に書いた。始めに挨拶を書くことは、ここから始まっているが、その挨拶の中で、「恵みと平和が、あなたがたにあるように」と記している。これは常套句と思われるかもしれないが、事実はパウロが異邦人とユダヤ人の両方を意識して書かしめさせた造語である。「恵み」はカリスでギリシャ人に向けて、「平和」はシャロームでユダヤ人に向けてという意味である。パウロは両方を同じ愛でもって対峙しているのである。そして挨拶を終えてすぐの冒頭で、「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。」と語っている。これもまた、ギリシャ人、ユダヤ人の垣根はないであろう。パウロはテサロニケの伝道で多くの実りを得たが、その信仰の仲間は種々の人々であった。その種々の人々が、ユダヤ人からの「妬み」から苦難を受けている。(使徒17:1~9)しかし、その苦難の中にあって、種々の人々が互いに励まし合い、愛し合って、信仰生活を堅持しているのである。この姿こそ、「信者の模範」であろう。それと共にパウロは、純粋に神の言葉を受け入れ、祈る人々に励まされたに違いない。このことこそ信者の模範の事である。