12月17日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴着をまとわせてくださる。

(イザヤ書 61章1~11節)

説 教 「救いの衣」

本日語られる「救いの衣」とは如何なることでしょうか。本日は、この言葉を解き明かすにあたり、御言葉の「解き明かし」が私の「証し」から始まることをお許し願いたい。私が前教会での長い信徒生活を経た後に牧師へと召され、日本基督教団の教師と任命された時に、初めて講壇での説教をする機会が与えられました。私が講壇を下りた時に、そこにおられた日頃から長い付き合いをしていただいていた教友から、喜びの祝福の言葉をいただきました。その祝福は次から次へと続き、多くの方々が祝福をくださいました。私のその時の心持は、さながら「天国の住人」でありました。天国の夥しい証人に囲まれている心持です。それを例えるならば、主より「救いの衣」を着せられ、恵みの晴着をまとわされている気分でした。私は、その時の「喜びの体験」が主に遣わされていく原動力となり、牧師の務めを常に思い起こす礎となっています。この体験は「洗礼体験」とも連なるものと同じです。私は牧師が信徒から求められていることが「霊的な祝福」以外ないことを、この恵みの体験からも断言することができます。今、私共の教会は駅前にて「聖会告知」を為していますが、それはバーゲンセールのビラ配りではありません。私共の「聖会告知」は魂の救いを必要としている方へとお遣わしになる神の声に聴き従う務めに他なりません。(使徒言行録9:10「アナニア」)私共は待降節を過ごす中で、今一度、「救いの衣」を着せられている自分を思い起こす必要があります。本日は丁度、待降節の「喜びの主日」です。キリストにある喜びを思い起こし、クリスマスの日々を祈りと喜びの内に過ごすことができるように、互いに自分と共に隣人や家族の為に祈り合いましょう。丁度、本日の御言葉は、クリスマスの救いの喜びを大切に過ごす意味を教えてくださっています。本日の御言葉は60章で語られる「栄光と救いの到来(キリスト到来)」を受けた続きとなっています。60章ではキリスト到来の預言が語られていますが、61章では、キリスト到来を受け入れた者が、どのような者へと変えられるのかということが語られています。そのことを一言で語るならば「解放」です。それは奴隷状態からの解放のことですが、それは社会的なことだけではなく、悪魔の霊的支配からの解放も語られています。この解放(救い)は霊的な喜びをもたらします。私共が体験する喜びは、「救いの衣」を着せられた姿です。その姿は、霊的な救いを求めている人々の灯台となります。私共は喜びのキリスト者として隣人のもとへ。