4月1日(日)復活日礼拝

「聖 書」

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものの心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

(コロサイの信徒への手紙 3章1~4節)

説 教 「キリストと共に」

皆様、イースターおめでとうございます。主イエスは復活なさいました。主は世におられた頃、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)とお語りになりました。復活は主だけのものではなく、本日の御言葉にもあるように、「あなたがたは、キリストと共に復活させられた」のとおり、「私共」もまた復活の命を生きています。では復活の命とは、その恵みの事実は如何なることなのかということを本日の御言葉並びに復活証言から聴きたいと願います。イエスは「わたしは復活である」と語られた後には、「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)とも語られました。この意味は日々、復活の主に出会い、日々、新たな命を生きているキリスト者には「実体験」として感じ取ることができることではないでしょうか。今から150年前の頃の話ですが、当時のアフリカは欧州諸国からは「暗黒大陸」と見られていました。そこに、探検家であり、医師であり、宣教師であったリビングストンは未開に道を切り開きました。その道は奴隷商人にも利用されました。リビングストンは奴隷解放にも力を入れました。しかし、リビングストンの本当の大きな功績はアフリカへの「宣教師の道」を開いたことです。リビングストンの生涯はまさに「命がけ」のものであり、その最期も探検の最中のものでした。リビングストンを宣教に駆り立て、最後まで魂を鼓舞し続けたものは、主イエスの言葉であり、復活の命そのものでした。その言葉とは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)です。主イエスは「いつもいつまでも共にいる」という事実です。主は初穂となられて、私共に「復活の道」を備えて下さいました。私共は主と共に、その道を歩んでいきます。では、その(復活の)道とは何でしょうか。それは先の「聖会」でも述べたように、「教会とは何か」を思い起こして下さればお分かりになるでしょう。教会とは「呼び集められた者の群れ」(エクレシア)であって、礼拝する者の集まりであり、神の子とされた者の集まりであります。そして復活の命に生かされ、キリスト共に「派遣」され、神の国建設の為に命を捧げる者の集まりです。復活の命を携えての「宣教」には迫害が伴います。しかし「キリストがいつもいつまでも共に」いて下さるので、福音の使者の務めを果たしていくことができます。内なる戦いと外からの迫害に対して勝利を得ることができます。私共はキリストと共に上のものを求めて参りましょう。