「聖 書」
サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だと信じないで恐れた。しかし、バルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシャ語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
(使徒言行録 9章26~31節)
説 教 「イエスの名によって」
本日の御言葉は、その最後に「こうして、教会の基礎が固まって発展し」と記しています。「教会の基礎」とは何なのか。その「基礎」を造り上げるものは何なのか。そのことを知ることが、本日の御言葉を語る務めであり、御言葉に聴く務めです。このことは最初に答えを申し上げるならば、何事においても「イエスの名によって」行動し、生きるということです。では、それは如何なることかということになるでありましょう。私共は祈りの最後に「イエスの名によって祈ります。」と言いますが、この意味についても、その基は同じとなっています。どうして「イエスの名」を用いるのでしょうか。それは自分の名に栄光を与えずに、「イエスの名」に栄光を帰すためです。キリストがお生まれになって2000年を経ましたが、未だに「自分の名」に栄光を帰す反キリストが存在しています。キリスト教の異端もまた同じです。イエス・キリストが、十字架の死に至るまで、神に「従順」であられたように、私共キリスト者は「イエスの名に栄光を帰す」ことを通して、信仰の従順を学んでいます。神を神として真実に畏れる信仰を与えられているのです。その真実は、イエス様が生前に弟子達にお語りになっていた言葉に、既にありました。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ14:13~)如何でしょうか。イエスの名に栄光を帰す意味がお分かりになるでしょうか。イエスの名によって願うことは、イエス御自身が「何でもかなえてあげる」と言われています。そのことを通して、父である神が「栄光」をお受けになると言われているのです。これはイエスの名による行動や祈りが「自分」に帰していないということです。キリスト者の祈りとは、「神の御旨と一致したことを祈ることが、イエスの名によって祈る」ことであり、神に栄光を帰すキリスト者の本質であるということです。迫害者サウロは復活のイエスに出会った後に、アラビアに退き(ガラテヤ1章)、罪と向き合い、自分の計画を捨て、神の計画に遣わされる者となりました。神を真実に知る者となったのです。エルサレムに着いたサウロは初め弟子達に受け入れられませんでした。しかし「イエスの名によって」行動するサウロを教会の仲間は受け入れました。この「イエスの名」に集う者は「平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、」愛の共同体を造り上げていくのです。