5月6日(日)聖日礼拝

「聖 書」

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

(ヨハネによる福音書 15章9~17節)

説 教 「わたしの友」

御言葉には「常に」新しい発見がある。そのことは「御言葉」は生きた命そのものであり、「御言葉」が自分の信仰の成長と共に「あり続けて」くださっていることの証左でもある。50年近く聖書に親しんできた私ではあるが、主御自身が「御言葉」そのものから臨在してくださったことは、今回は初めての経験ではないかと思っている。主キリストは9歳の時から、常に私を支え、共にいてくださっている「親友」である。であるから、本日の説教題である主御自身が私達弟子のことを「わたしの友」と呼んで下さっていたことは知ってはいた。しかし、それは「知っていた」ただそれだけである。その重みも愛の深さも弁えてなどいなかった。今回、主のお声を聴いてみて、改めて本日の「御言葉の愛」に涙が止めどなく流れた。その御言葉が、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」である。何度も何度も聞いてきた。そして何度も「イエスはまことのぶどうの木」をお話をしてきた。にも関わらず、「友のために自分の命を捨てること」を究極の人の愛の深さ(測り)として受け取っていた自分がいる。主御自身は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」を今から赴く「十字架」を思いながら語っているのである。今回の御言葉が「告別説教」と言われる所以からもこのことは容易に想像できることであった。それなのに、恥ずかしくも私は今回初めて、このことを弁える者となった。主は私のことを「わたしの友」と深く愛し、思ってくださっている。であるからこそ、自分の命を十字架上で捨てて下さったのである。私達が「友である」ので、自分の命を捨てて下さったのである。それほどまでに「十字架の死」をもってでしか、私達の「罪」を取り去ることができないほど、私達の「罪」は重いのである。主が「友」であるので、私達の「死の現状(罪)」を知っておられた。その永遠の死を打ち破るには「御自身の死の贖い」=「極みの愛」でしか、「救いの道」(回心)はないことを神から言われていた。イエスは「友」のために、「自分の命を捨てる」ことを選び取られたのである。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」これは、あなたがたがわたしを愛したから愛するのではない、あなたがたがどんな状況でも、どんな状況に陥ろうとも、私が私の意志で先にあなたがたを愛したのであるという意味である。「友」とは互いに必要とし合い、相手を愛することを通して、喜び合う存在のことである。