6月3日(日)聖日礼拝

「聖 書」

けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なるものとし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。

(ヘブライ人への手紙  9章11~15節)

説 教 「永遠の霊」

本日はヘブライ書に記された「大祭司論」の箇所を通して、聖霊降臨を通して与えられた教会とは何か、本日も執り行われる聖餐とは何かということを知りたいと願っています。本日の御言葉には「幕屋」という言葉が多く出ています。「幕屋」とは砂漠に住むイスラエルの民にとっての神が在する移動式の聖所のことです。起こりは前節にも記されていますが、モーセが神から律法の授与を受けた後に、それをイスラエルの民に告げ、神と民が「契約の締結」(旧約)をしたところから始まっています。では「幕屋」では、何が行われていたのでしょうか。それは「会見の幕屋」と言われるところから理解できるように、人が神と出会う場所であるということです。人、それも祭司です。何故、祭司は神に会わなくてはならないのか。それは「贖いの儀式」の為です。イスラエルの民は神から「律法」を与えられ、それを「すべて守ります」と約束しました。契約の締結(旧約)です。しかし人は罪ゆえに律法を完全に順守することは適いません。ですから「贖いの儀式」が必要だったのです。律法には多くの規定がありますが、また、それを破るときの「贖い」の規定も多く記されています。幕屋の中の「至聖所」には「契約の箱」が置かれていました。神御自身が在されるところですから、「聖」なる場所です。イスラエルの民は「大贖罪日」に大祭司に至聖所に入ってもらい、「民の贖い」をしてもらいました。(贖罪の日(ヨーム・キップール)第七の月(ティシュレー)の10日)しかし大祭司は、その儀式を執り行う前には、自分自身の為に、家族の為に「贖いの儀式」をする必要がありました。聖なる神に会うときに自らが「汚れ」があるならば死んでしまうからです。それほどイスラエルの民は神が「聖」なる方であることを知っていました。イスラエルは永く、この「贖いの儀式」を守り抜いてきた民だったのです。しかし今、私共にはキリストがおられます。マタイ書27章に記されている如くに、「そのとき、(主の十字架の贖いの完成)神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、」ました。上から下に裂かれたのですから、神の業でありましょう。このことは、人は主の十字架の贖いを信じる時に、人は救われ、イエスの贖いを通して、神と直接に交わることができるという意味です。この救いの恵みは私共の魂を「聖なる宮」の住人にします。神の光、知恵、栄光、平和に満たされる天国の住人にするのです。この救いの恵みに満たされた人々が集まるところが教会です。聖餐はその恵みを手にする処です。