「聖 書」
イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
(ヨハネによる福音書 6章1~15節)
説 教 「欲しいだけ」
本日の御言葉は「五千人の供食」です。何度も語ってきたところの御言葉です。しかし私は今回ほど、「身につまされて」、本日の御言葉を味わうことになったことはありません。私は以前から、生活困窮者のNPOの代表をしていることをお伝えしてきました。この活動は、主の御心を聴きながら進めてきたものです。その事実は今も変わりません。しかし今、大所帯になってきて、かかる費用が多くなり、赤字経営が膨らんできました。先の不安に、押し潰されそうになることがあります。私の小さな頭で、先の計画を練り直すことも屡々です。主の御心から始めた計画でありながら、「私の計画」になりつつある危険を感じています。私は今年度は「御言葉と祈りに専念する」とお約束しました。これは改めて正しい選択であったと確信しています。本日の御言葉を御覧ください。多くの群衆が集まり、パンが必要となりました。「生活困窮」に具体的な奇跡が必要となっています。イエス様は弟子の一人であるフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われ、彼を試みられました。この「試み」の意味は、民数記11章に記された「民の不満」の故事を思い起こさせるためであり、イエス御自身が「神の賜物」である、「命のパン」であることを思い知らせるためです。この後イエス様はパンの増加の奇跡を行われます。この記事を書いたヨハネにとって、この奇跡の事実は当たり前のことです。ヨハネの関心は、その奇跡の大きさにはありません。ヨハネの興味は奇跡の事実性ではなく、その「しるし」(セメイオン)性にあります。ヨハネは「五千人の供食」の記事を通して、イエスこそ「神」あることを伝え、今回の「しるし」は、モーセの時代に荒れ野で神が起こした奇跡の「再現」であることを読者に伝えようとしています。本日は「塩狩峠」の上映が予定されていますが、「塩狩峠」を書いた三浦先生にとって、長野青年の行動の事実は揺るぎない確信です。しかし青年の亡き後に書かれた小説には事実以上の三浦先生の伝えたいメッセージが込められています。私共は、この映画を観る時に、そのメッセージこそ汲み取らなくてはならないことではないでしょうか。本日の御言葉もまた同じです。今、NPOの困窮を覚える時にこそ、主に信頼を捧げ、「神の言葉」を聴く時を持たなければなりません。主は必ず私共の全ての必要を知っていて下さり、必要の全てを満たす準備を始めておられます。キリストは全てを満たし、主を信頼する者は全ての飢えと渇きから解放されるのです。