9月30日(日)聖日礼拝

「聖 書」

 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。

 (マルコによる福音書 9章38~49節)

説 教 「一杯の水」

本日の御言葉の解き明かしが「証し」が中心になることをお許し願いたい。御言葉の「解き明かし」については、以前の説教を参照下さい。(2012.9.30参照)本日の御言葉の最後でイエス様は、「互いに平和に過ごしなさい。」と言われている。受難予告の後、何故急に、この勧めが為されたのだろうか。それは「平和」は救いであり、「天国」そのものを表しているからである。また本日の中心テーマが「わたしの名」であるからだ。前節で「わたしの名のために」子供を受け入れる大切さが語られ、本日は、「キリストの弟子という名前」(直訳)の理由で、一杯の水を飲ませてくれる者は、必ず報いを受けると語られている。つまり「イエスの名」を信じる者の「幸い」は「(神との)平和」を得ることであることが、その中心にある。信仰者は、本日の御言葉が語る如く、固くなりやすく、偏狭にもなりやすい。であるからこそ、弟子の偏狭さに触れた主は、「わたし」を信じる者の「幸い」を具体を通して語られたのである。

 私は今、生活困窮者のNPOを運営している。本日の御言葉の解き明かしを私の「証し」を通して、私も又具体的に語りたい。私は野宿者支援を続ける中で、隣人を愛す行為が何かを学んだだけではなく、自分自身の中にある「偏狭さ」や差別性を知ることになった。それと共に、困窮者の人々の中にある愛に逆に励まされている日々を送っている。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2:18)この御言葉は、夫婦のことを語るだけのものではなく、「人」が人として生きていく上での「真理」を語っている。今、NPOは破産の危機に面している。若し破産するならば、安住の地を得た人々をまた憂き目に遭わせることになる。私は眠れない日々を送っている。私はこの危機を打開するために、「合理化」に取り組んだ。それは無駄を省き、人件費を削り、経営を黒字化するということである。人件費を削ることは、人を辞めさせることであるから、その人の生活の糧を奪うことになる。NPOの理念に沿う行動をとれているのだろうか。本日の御言葉で「わたしの名」が何度も出てきているのは、私共は「キリスト」の看板を背負っているという意味である。であるからこそ、私共の生き方が、人々の「つまずき」になることがある。私はキリスト者として、NPOの理念だけは外すわけにはいかない。たとえ全財産を失おうとも、キリストの看板に反する生き方を為すわけにはいかない。その生き方の先に、「主の平和」が必ずあることを、主は教えておられるのだから。