10月21日(日)聖日礼拝

「聖 書」

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありあせんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために。大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

(ヘブライ人への手紙  4章14~16節)

説 教 「わたしたちと同様に」

「ヘブライ人への手紙」は、迫害下にあって疲れ、かつ恐れている「教会」に対して、信仰に堅く立つべく勧めの言葉を書くことを執筆の主要目的としています。本書は「教会」(エクレシア)のことを「さまよえる民」として捉えています。「彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。」(3:10)これは荒野の40年のイスラエルの民の事を語りつつ、教会の中で迷い、神の言葉に聴き従わない者たちに向けて語られている勧告の言葉となっています。しかしこれは特別なことを語っているのではなく、現在の私達にも向けられている勧告の言葉です。私共キリスト者は、ただ「救いの恵み」に浴するだけではなく「成熟から成熟へ」、「豊かさから豊かさへ」と導かれゆく者とならなくてはなりません。キリスト者の一人一人が、その歩みを為してきたからこそ、キリスト教は何千年も続いてきたのです。本日の御言葉は、「偉大な大祭司、神の子イエス」について語っています。本書は大部において、「大祭司キリスト論」を述べています。それは何故でしょうか。その意味は、私達信仰者が何を頼りに、信仰の道を行き、どこに進んでいけばよいのかを示すために、主を「偉大な大祭司」として提示しているのです。大祭司の役割は何でしょうか。それは、私達の罪の贖いを代わりに為して、私達の罪を清め、再び、神のもとへ近づくことができるようにしてくれることです。しかしユダヤ教の大祭司は年に一度、毎年その贖いの儀式を執り行わなくてはなりませんでした。しかしキリストは、「ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(9:12)私共はキリストのみを見上げて歩んでいかなくてはなりません。私共の師であるバックストン先生は「主は私の羊飼い」の説教の中で、「信仰の生涯とは、主イエスに目を注いでいく生涯です。そして私たちは、聖書を通して、力なる主ご自身のお姿を明確に見ることができるのです。」と語っておられます。また別の箇所においては、「兄弟姉妹、このように主を信じて進むあなたの生涯こそは、世に光を放つ生涯です。あなたの生涯を主の栄光を現すものとしてください。そうするなら、あなたを通して他の人々が、主はなんと素晴らしい羊飼いであろうかと驚くでしょう。そして、あなたを通して他の羊も同じ恵みと信仰に入れていただけるでしょう。」と語られました。これは本書が語る「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」信仰の道を行きなさいに連なる言葉です。私共は大祭司イエスを信頼して歩む神の民です。