「聖 書」
見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住まう都となる。その名は、『主はわれらの救い』と呼ばれるであろう。
(エレミヤ書 33章14~16節)
説 教 「主は我らの救い」
アドベントを迎えました。キリスト教歴一日目です。アドベントは勿論、キリストを待ち望む時ですが、私の本日のストールの色は紫となっています。何故でしょうか。紫は古より、高貴な色とされてきました。王であるキリストをお迎えするにふさわしい色でありましょう。しかし紫には「悔い改め」の意味もあります。本日の紫は、どちらの意味なのでしょうか。これは両方の意味が込められています。私共は自らの姿を見つめつつ、自らの罪を悔い改め、心の中にキリストをお迎えする準備を始めなくてはなりません。この準備ができて、初めて「主は我らの救い」とキリストをお迎えすることができるのです。本日の御言葉を御覧下さい。エレミヤ書です。エレミヤは亡国の民と運命を共にする預言者です。涙の預言者エレミヤと言われます。何故エレミヤが「涙の預言者」かと言われるのかと言いますと、彼が真実を語る預言者であったからです。人は真実を語る人を嫌います。エレミヤは神の言葉である「真実」を同胞に語ったために、暗殺されそうになり、友に裏切られます。しかし彼は尚、背信の民である同胞と共に運命を共有しようとするのです。この姿を「涙の預言者」と語らずして何と語ればよいのでしょうか。エレミヤは語りました。属国となっても偶像を拝してはならない。北王国は偶像礼拝をやめずに、国は滅び、民は散り散りになりました。彼は又語ります。属国となりバビロニアの王に服従せよ。このようになった自らの罪を顧み、悔い改め、真実な神に立ち帰れ。しかし南王国はエジプトに頼り、その最後は捕囚の民となりました。ユダヤの民はエレミヤの言葉に聴き従わない、「背信の民」だったのです。エレミヤは神の言葉が民に届かないもどかしさを感じていたでしょう。その苦悩の中で、彼は信仰の飛躍を為すのです。それが「新しい契約」です。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」(31:31)エレミヤは「心において神に結び付くこと」こそが救いであることを啓示されたのです。この救いは本日の御言葉「正義の若枝」キリストによって実現されました。「若枝」は「ナザレ」です。イエスは「ナザレの人」と呼ばれました。「ナザレ」は蔑称でした。この意味は罪の縄目を自覚し、その所からの解放が「救い」であるという意味です。私共も罪を自覚し、キリストを信じ、罪が贖われ、主は我らの救いと感謝しつつ、アドベントを過ごしましょう。