「聖 書」
彼はよく考えた上で、金の子牛を二体造り、人々に言った。「あなたたちはもはやエルサレムの上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である。」彼は一体をベテルに、もう一体をダンに置いた。この事は罪の源となった。民はその一体の子牛を礼拝するためダンまで行った。彼はまた聖なる高台に神殿を設け、レビ人でない民の中から一部の者を祭司に任じた。ヤロブアムはユダにある祭りに倣って第八の月の十五日に祭りを執り行い、自ら祭壇に上った。ベテルでこのように行って、彼は自分の造った子牛にいけにえをささげ、自分の造った聖なる高台のための祭司をベテルに立てた。彼は勝手に定めたこの月、第八の月の十五日に、自らベテルに造った祭壇に上った。彼はイスラエルの人々のために祭りを定め、自ら祭壇に上って香をたいた。
(列王記上 12章28~33節)
説 教 「コンビニ信仰から離れて」
本日は晃充牧師が急な聖用のために、私が代わって説教を担当します。本日の説教題は晃充牧師が示されたものです。どのような説教をする予定であったのかはお聞きはしていません。しかし神は同じメッセージを示されることでしょう。本日は1月の2週目です。先週は本年の「教会標語」が与えられましたが、1月は大体「教会標語」を補填していく「御言葉」が語られていきます。ですからきっと晃充牧師も「教会標語」にかかわる御言葉を用意していたことでしょう。本年の教会標語は「愛の共同体」です。本日の御言葉と如何に関わりがあるのでしょうか。「愛の共同体」の愛は「キリストの愛」のことです。先週、私共には「愛の共同体」を育てて下さる「神の愛」があると申し上げましたが、それでは、私共の責任は何か、それは「キリストの愛を知る」ことであると語りました。本日の御言葉は、その「キリストの愛を知る」上で、欠かせないものです。本日の御言葉はイスラエル王国が分裂していく物語です。これはソロモン王の偶像礼拝に対する罪の結果です。ソロモンの家臣であったヤロブアムが北イスラエル王国の王に立てられます。ソロモン亡き後、十部族が新しい王に従います。ユダ族はソロモンの子レハブアムに留まり、南ユダ王国となります。北王国には神殿がありません。ですから本日の御言葉である「新しい聖所」を北王国の中に造ったのです。ヤロブアム王が民に言います。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。」(簡単に礼拝できる場所があるのだ。)「近くて便利な礼拝」=「コンビニ信仰」これが本日の説教のテーマです。否「コンビニ信仰を離れて」ですから、その「反対」が「テーマ」です。信仰は「近くて、早くて、便利」はだめなのです。それは自分にとって都合が良いからです。自己中心の信仰であるからです。それとは反対に、「遠くて、遅くて、不便」は正しい信仰です。神は「正しい信仰」を求めておられます。イエス様は「正しい信仰」の模範です。正しい信仰は常に自己中心から離れて、人には遠き道を行くが如くに見える様相を呈しています。それはイエス様が歩まれた道です。イエス様は神であられたのですから、天から声を出され、力と権威をもって人に臨まれたらよかったのです。しかし神はそんな「簡単」を選ばれませんでした。神が人となり、三年も苦難の公生涯を歩まれ、神の道を行かれたのです。それは何故か。それは人に神の愛を示す為です。真実の愛は「遠くて、遅くて、不便」なのです。私共も又「真実な愛」で共同体を為していくのです。