4月28日(日)聖日礼拝

「聖 書」

 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ。」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

(ヨハネによる福音書 20章19~31節)

説 教 「信じて命を生きる」

復活節第2主日は「新生」の御言葉が用いられます。「新生」とは何か。それは「復活の現実」の命のことです。私共が毎聖日に説教を聴き、聖餐に与り、「わたしの主、わたしの神よ」と告白する時、主は私達に「平和」を与え、父である神から任務「派遣」を分け与え、霊「息」(プネウマ)を吹きかけて、(第二の創造)新たに生かし、「新生」私達の内にイエスが生きて下さいます。この恵みが「復活の現実」であり、「新生」のことです。本日の御言葉は、その命について語っています。また、ヨハネ書の本来の締め括りの言葉である「本書の目的」にも、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と記されていることも同じ意味です。「新生」とは、「信じて命を生きる」ことです。このことはマグダラのマリアや使徒ヤコブも体験しました。では復活の主に出会った二人の共通点は何だったのでしょうか。それは「叫び」です。マリアは「ラボニ」と叫び、主にすがりつこうとしました。ヤコブは、主の傷跡に手を入れ、「わたしの主、わたしの神よ」と叫んだのです。「叫び」は主に一事に心を向ける行為です。「回心」です。しかし、この回心には、方向転換をするだけではなく、「悔い改め」と「裁き」が必要です。ヤコブは主の傷跡に手を入れることを通して、自分の罪が示され、裁かれ、悔い改めに導かれ、主の息によって、「全き潔め」が与えられたのです。「信じて命を受ける」ためには、「裁き」「悔い改め」「潔め」が必要なのです。新生の命に入ったトマスに主は、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われました。これからは「信仰の目」で生きよと勧めの言葉を述べられたのです。これはペトロの手紙一1章にも記されています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。」もう世の偽物に心を惑わされることはありません。新生の命は心を喜びで満たして下さいます。それは信仰の実りとして「魂の救い」を受けているからです。本書は更に真理を伝えています。「神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ(新生)、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えて、しぼまない財産(永遠の命)を受け継ぐ者としてくださいました。」私共も又、同じく「信じて命を生きる」道を歩んでまいりましょう。