5月26日(日)聖日礼拝

「聖 書」

さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」この天使が、〝霊″に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。

(ヨハネの黙示録 21章9~27節)

説 教 「聖なる都」

本日は新約聖書の最後の場面です。聖書は私達に「何を語る書」なのでしょうか。それは、私達に「いのちを与え、その方法を教える書」です。ですから、聖書は、その最後に、「いのちの世界」を「黙示(アポカリュプシス)」にて語りました。本日の御言葉です。本日の聖書の箇所は「終末」の世界として、語られることが常ですが、これはそのようなものではありません。イエス御自身が、その最後については「神のみが知る」と語られていたことを考えるならば、このようなことが起こることが事実であっても、なお「隠されている神秘」と捉えることが妥当でしょう。では何故、ヨハネは「世界の終わり」を語ったのでしょうか。それは彼が黙示録の冒頭にて記した如くに、「さあ、見たことを、今あることを、今起ころうとしていることを書き留めよ。」(1:19)と主の言葉が彼に臨んだからです。つまり、これは「啓示」です。「啓示」は事実であっても、信仰の世界の出来事です。私共は「世界の歴史」を「神の視」で「視る」ことが大切です。ですから、ヨハネの残した言葉を、「信仰の視」を通して、読むことが肝要でありましょう。ヨハネは小アジアに広がる諸教会が「迫害」を受けていることを「今の出来事」として知っていました。ですから諸教会に向けて、「慰めと勧告」を預言者として語ったのです。黙示録は未来人に対して語られた「予言」や「ファンタジー」ではありません。(聖書は謙虚に神の言葉として聴き、語りかけてこられるまで、待ちながら「聴く言葉」です。)私達は、当時に語られた言葉を、「今も同じ言葉」として聴かなければなりません。何故なら、本日の言葉は「『教会』に向けて語られた言葉」だからです。私達は「神から呼び集められた者の群れ(エクレシア)=教会」です。私達は神から恵みの「派遣の命」を生きています。シモンたちが主から「網を打て」と命じられたように、私達も同じ使命を受けています。その使命を生きる時に、「迫害」「困難」「困窮」「艱難」も待ち受けています。私達に希望はあるのでしょうか。私達には「希望」はあります。それは神から「聖なる都」を与えられるという希望です。本日の御言葉は、「教会を象徴」していると言われます。本日の御言葉は「教会の姿」を表しているのです。私達が十字架の主に信頼を置くならば、「聖なる都」を与えられ、「聖なる都」に住むことを神が得させて下さいます。そこは、永遠に神は共におられる世界、神の栄光を全ての者が讃える世界です。ヨハネの黙示を「今」の教会の希望として受けとめましょう。