9月6日(日)聖日礼拝

「聖 書」

「兄弟があなたに罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人に見なしなさい。  はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

(マタイによる福音書 18章15~20節)

説 教 「名によって集まる」

マタイ18書は「教会の姿(本質)」を主の口を通して語られています。では、本日の御言葉の「兄弟の忠告」は、どのように受け取れば良いのでしょうか。また、忠告を聞き入れない兄弟に対しては、「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と語られた言葉を、どのように受け取れば良いのでしょうか。ここで語られる「忠告」は「裁き」のことではありません。「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。」(一コリ4:5)の通りです。ここで語られる「忠告」はエレンコーで原意は「神の光にさらすこと」です。つまり兄弟が罪を犯し、天国から離れ、「迷える羊」になっているならば「静観」をするなという意味です。神の光にさらし、罪を自覚させなさいという意味です。つまり天国の住人に立ち帰らせなさいという意味が、ここの「忠告」にあるのです。「私怨」による裁きは、ここで語られる忠告ではありません。しかし人は人から「罪」を指摘されることほど気分の悪いものはありません。悔い改める人は稀有ではないでしょうか。だからこそ「聞き入れない」ときのことが語られているのです。マタイは教会を「聖なる人の集まり」と思ってはいません。逆にマタイは教会は「罪人の集まり」であると自覚しているのです。ですから愛の忠告に耳を貸さない人々のことをあえて意識して書き残しているのです。マタイは教会の本質を語ろうとしています。ここ何週に亘り、ペテロの信仰告白に始まり、本物の信仰とは何かを思う御言葉を味わってまいりました。「わたしを何者だと言うか。」「わたしのために命を失う者は、それ(命)を得る。」そして本日の御言葉、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」最後の御言葉は「教会」を表していると言われるものです。主は「わたし」「わたし」「わたし」と言われました。主を通して救いがあり、教会があり、天国があるからです。滅びに行く者に忠告をし、天国に立ち帰らせる。立ち帰るならば兄弟を得たことになる。しかし、聞き入れないときは、「二、三人が証人となる」しかし聞き入れられない。「異邦人か徴税人」のように「神のない者」となっている。自分たちには「力」がない。二人はどうするか。愛のゆえに主に「祈る」でありましょう。そこに「教会」があるのです。教会を愛の共同体として存続させる為に、私共は罪を認め、心を合わせて主に祈り、主と共にあり続けるのです。