「聖 書」
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。 わたしの思いは、あなたの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを高く超えている。
(イザヤ書 55章6~9節)
説 教 「わたしの思い」
イザヤ書55章は「御言葉の力」が記されています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」(55:1)と冒頭に記されているように、今、イスラエルの民は「捕囚」として憂き目に遭っていて、「渇き」を覚えています。選民としての誇りも砕かれ、財産も土地も失い、魂の拠り所であった神殿さえも失いました。彼らは自己憐憫し、自身さえ失って、顔を下に向けています。そこにイザヤの弟子であった第二イザヤが捕囚の民に預言します。「メシア預言」(53章)です。苦難の僕(神の子羊=イエス・キリスト)の預言です。イザヤは何も希望が見出せない場所で、神の救いと「新しい祝福」を語り始めました。イザヤは、どのような確信が与えられ、民に預言したのでしょうか。イザヤは捕囚の民として苦しむ民が、まことの「悔い改め」を為していない姿を見ました。民は銀と食べ物に、未だに呻吟している。命の価値を神以外のもので満たそうとしている。祈りを忘れた民。エレミヤもまた民に同じ姿を見て、捕囚の民に手紙を送りました。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。」(エレミヤ29:12)つまりエレミヤは、神殿における礼拝が可能でなくなった時から、供物を伴う礼拝ができなくなった捕囚の民にとって「祈り」が供物にとって代った」ということを伝えたのです。民は頑迷です。しかし民の姿は「私共」の姿です。全てのものを失っても人は、まことの「悔い改め」を為すことはできないのです。本日の御言葉でイザヤが語ります。「神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみ(思い:計画)を捨てよ。」(55:7)イザヤは「悔い改め」を奨めているのです。ではイザヤの語る「悔い改め」とは何でしょうか。それは、「神に立ち帰ること」「神の思いを聴くこと」「神の備えられた道に従うこと」です。つまり「まことの悔い改め」とは「己の道と思いを捨て、主に帰る」ことです。これを「ヤーショーブ」と言います。ヘブル語では「ショーブ」は「悔い改め」を表し、「神に立ち帰る:救い」のことです。私達が憂き目に遭い、全てのものを失う時は、「神に立ち帰る」=「救い」のチャンスの時なのです。イザヤは希望を失っている民に、回心という希望を告げました。回心は後悔ではありません。神が希望であるという「立ち帰り:方向転換」のことです。私共もまた顔を上にあげ、神の思いに生きたいと願います。