「聖 書」
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
(ヨハネによる福音書 3章14~21節)
説 教 「神は世を愛された」
教会には「十字架」が掲げられます。それは何故でしょうか。その理由は、神が世(罪人)を愛されていることを知らせる「しるし」であるからです。その真理を示す御言葉が本日のものです。本日の御言葉は有名な言葉です。多くの教会の掲示板に記されています。同志社の新島襄は本日の御言葉を「新約聖書の富士山」と呼び、ルターは「聖書の縮図、小さき福音書」と呼びました。本日の御言葉の真理を信じ受け入れる者は、永遠の命を戴く者とされます。本日は、その深い真理を喜びをもって味わうことと致しましょう。本日の16.17節は対になっています。主文は「神は独り子を与えた」と「神は子を世に遣わした」が対です。そして目的文は「信じる者が滅びず」と「世を裁かず」が対で、「永遠の命を得る」と「世が救われる」が対になっています。この意味は「永遠の意味を問うしるし」が語られています。3章の冒頭で、ニコデモはイエスに問うことがあって、イエスのもとに来ました。しかし、本文には彼の直接の問いは記されていません。その代わり主が彼の心を知り、問いに先んじて、お答えになられました。その答えが本日の御言葉です。彼は主に、こう(心で)言ったのです。「神のしるしの秘密を教えて下さい。」(3:2)彼は「永遠の命」を知りたかったのです。本日の週報に記された「ジ・エターナル」の意味は、「神」そのものを表しています。また「永遠なるもの」を表す言葉です。どちらも、神の本質を示しています。ニコデモは主イエスに「神の永遠」を見ていました。どうすれば人は「永遠の命」を得ることができるのでしょうか。主イエスは14.15節で「青銅の蛇」(民数記21:4-9)を示されました。この御言葉は、モーセが青銅の蛇を「旗竿」の先に掲げ、もしイスラエルの民が蛇にかまれたとしても(神へのつぶやきの罪による死)、「旗竿」の蛇を仰ぐと命を得るという話です。この「青銅の蛇」は、自らの罪(死)を常に顧み、神の恩寵に感謝することを示しています。この記事は、「十字架」の出来事によって、全ての民に実現しました。神の「旗竿」が「十字架」となったのです。神は世(罪人)を愛されました。世は神を信じず、それが裁きを招き、死に至ります。しかし神は「独り子」を世に与えました。「御子」が罪人の代わりに死に、その御子の贖いの死を自らの為であったと信じる者に永遠の命を与え、人を救うためです。十字架は、その「しるし」です。