「聖 書」
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
(エフェソの信徒への手紙 4章1~13節)
説 教 「一つの希望」
エフェソ書の中心テーマは、「キリストのプレローマ」であり、「キリストにおける一体化」です。その書かれた背景にはコロサイ書に記されていた「ストイケイア崇拝(世の諸々の霊力)」への警戒を促す目的があったとはいえ、パウロはエフェソの信徒の人々に向けて、神の「秘められた計画」を示すことが、その本意です。パウロは特に異邦人を意識して本書を認めました。つまり日本人の我々も又、耳を傾けるべき御言葉であるのです。パウロは本日の御言葉の中で、「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」と勧告しています。先週に語りましたように、主は私共の「敵意の中垣」を取り除いて下さり、「差別」を打ち砕いて下さいました。私共は主にあって、「平和のきずな」で結ばれています。私共は今、「天国の住人」です。私共は今、「一つ」です。本日は「キリストの昇天」礼拝でありますが、私共は今、天の御座に座しておられる「一人の主」を共に見上げる故に「一つ」なのです。私共は「ぶどうの木」のキリストにつながる者であるので「体も一つ」です。私共は「キリストのプレローマ」を受けています。パウロは教会に示されている神秘を開示し、続けて私共が「一つ」である理由は、「それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。」と語りました。「一つの希望」とは何を意味しているのでしょうか。これは勿論、私共が死んだ後に、御国に迎えられるという希望を語っていると言えます。しかしパウロは、ここにおいては狭義の希望を語っているのではありません。パウロは今、ここで語る「一つの希望」は、神の「秘められた計画」である希望を語っているのです。では、神の「秘められた計画」である「一つの希望」とは何か?それはキリスト者が「御国の完成を視る」という「一つの希望」です。主は私共に「一致する」「一つの希望」を与えて下さいました。この「御国の完成を視る」とは、具体的には、私共が「ぶどうの木」になるということです。主につながっている、一つである、互いを必要としている、互いに仕え合っている、愛の実を結んでいるということです。この姿はビジョン(神の計画)です。私共が愛の実を結ぶとき、種が生まれ、新たな愛の実を世に送り出していくことができます。世に御国建設が広がっていくのです。私共があずかる「一つの希望」は神の壮大な「愛の完成のビジョン」です。