「聖 書」
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
(ローマの信徒への手紙 8章14~17節)
説 教 「アッバ、父よ」
本日は「三位一体主日」です。先週に「ペンテコステ」を迎えて、私共は「聖霊降臨節」の時を過ごしています。キリスト教歴の「永遠の時」(緑)を過ごす私共は「奴隷として再び恐れに陥れる霊」に支配されることなく、「永遠の喜びの時」を生きます。この力は「聖霊の働き」により保証され、私共は今、「神の子」とされています。本日は、この「喜び」について解き明かしを致します。パウロはロマ書において「恩寵」を語ります。これは、「信仰義認」を勿論語っているのですが、その真意は「恩寵の喜びの内実」を語ることです。この「恩寵」は、父なる神を「アッバ、父よ」と呼べる「恵み」のことです。この「恵み」はユダヤ人、異邦人、男女、子ども、能力の区別はありません。「アッバ」(子供が父を呼ぶ名)はアラム語です。新約聖書はギリシャ語で書かれました。にも拘わらず、初代教会の祈祷の「定型文」の中に「アッバ」は用いられています。その理由は、主イエスが「ゲッセマネの祈り」の際に、「アッバ」を用いて、祈られていたことに起因しています。弟子達は、この時の主の「祈り」の感動を忘れることができなかったのです。主は死を前にして、神に「アッバ」と祈られ、その最後には「御心がなりますように」と祈られた。この神の「三位一体」の関係性「愛し合う交わり」に深く弟子達は感銘を受けました。主イエスは最期まで「目的地」から離れることはありませんでした。主の弟子である私共はどうでしょうか。私共が「神の霊によって導かれる者」であるなら、決して「目的地」を見失うことはありません。「目的地」とは「神の計画」(ビジョン)のことです。具体的な意味においては「キリストと共に苦しむ」ことです。「キリストと共に苦しむ」とは、「悲しみに満たされている者」と「共にある」ことです。先週に、お語りしたジネブロの行為を批判することは簡単です。しかしジネブロの病人の老人に寄り添う心を為すことができた人は他にあったのでしょうか。聖フランシスコ「平和を求める祈り」を彼自身が本当に体現できたときに、ハンセン病の人の病は癒されました。彼が自らに死に聖霊に導かれ、「神の子」とされた時に「奇跡」は起こったのです。私共は真摯に聴く態度(品性)から「御霊の実」は実ります。神に聴き、隣人を尊び、相互に承認し合いましょう。私共は「アッバ、父よ」と呼ぶ「神の恩寵」の前に立っています。主に賛美と感謝を捧げましょう。