「教会の紹介」
(バークレーFバックストン 1860-1946)
バークレーF.バックストン師はイギリスケンブリッジ 大学に学ばれましたが、1890年日本伝道に来日、松江でわらじばきで伝道するかたわら、多くの伝道者や信徒を訓練して、松江バンドと呼ばれる、日本の純福音派の源流を生み出されました。帰国後も、再三来日、各地を巡回、講演会、修養会で語られました。彼の教えを受けた人々は、多方面に及んでいます。
銀座教会の名誉牧師だった故渡辺善太師は、「新神学、高等批評で理屈は言うが心は空虚だつた。そういう自分を救ったのは、若い時、バックストンに出会い、彼の『火をもって答える神を神とせよ』という説教を聞き、これが聖書を通して神が語りたもうたもののだ、と感じた」と語られました。
バックストン師の秘書だった故米田豊師は「バックストンは『神の聖き人』だ、身近にいると温かで、それでいて神々しい、この人こそ聖者だと思つた」と言われました。
故本田弘慈師は、バックストン師は聖霊を受けよと語ったばかりか、彼の生活において、聖霊を見せた、潔めを語ったばかりでなく、潔めを見せた、と言っておられました。 (2005年バックストン聖会の資料より)
(柘植不知人 1873-1927)
英国人宣教師バックストンは1890年(明治23年)に来日し、松江バンドは、河辺貞吉らのフリー・メソジストの流れ、中田重治らのホーリネスの流れ、そしてバックストン、ウィルクスらが直に起こした日本伝道隊の流れに拡大する。 日本伝道隊は、伝道館を設置しての歓楽街伝道、聖書学校、教師派遣、聖会開催、文書伝道を5つの柱とし、そこから沢村五郎、柘植不知人、小島伊助らが育つ。また、羽鳥明、本田弘慈らもこの流れに属する。関西聖書神学校からは、数多くの福音派の牧師が輩出された。
また、「活水の群」を起こした柘植不知人は、長野の飯田でリバイバルを体験し、癒しの伝道者として活躍した。 バックストンは、まさに、聖書で言う「使徒」のような存在で、日本宣教において大きな足跡を残した。ザビエル、クラーク、バックストン。一人の霊的人間は、その国の宣教を変えることができる。(福音ジャーナルより)
(高橋文蔵 1901-1973)
高橋文蔵牧師は、明治34年、長野県小諸市で生れる。青年期に病に苦しみ、教会の門をくぐる。西條弥一郎牧師の説教に出会い、新しい生まれ変りの体験をして直ちにキリスト教に入信した。そして病も、その時に癒される。その出会いより、大きな使命を与えられ、東京落合キリスト伝道隊の活水学院に入学、柘植不知人師のもとに献身。昭和4年(1929)尼崎キリスト伝道館に赴任。熱心な伝道に励み、礼拝出席は60名になる。昭和11年(1936)京都清和教会(西條弥一郎)にて献身していた多久間久枝師と結婚。時代は太平洋戦争に突入していく。終戦を迎えるが、信徒の殆どを失う。尼崎の自宅を根拠地として、伝道を再開。この頃より刑務所伝道、病院伝道、母子寮伝道を始める。戦後の宣教師の伝道協力により、リバイバルを体験。教勢が漸次発展していき、昭和30年11月教会の献堂式(旧会堂)を迎える。
・教職「先生のうちに燃えておったその、みたまの火を救霊の熱情の、その火をうちに燃やされて、みたまの一致を以って更に前進
して行かれる事が、主イエス様の大きなみ栄に変えられる事を信じます。」 (石賀誠牧師)
・所長「此の間、死刑執行で亡くなりましたキリスト信者になった島秋人君が『此の澄めるこころあるとは識らずして、死刑の明日に
迫る夜温し』と云う辞世の句を残して、喜びの裡に亡くなりました。」 (井田慈清所長)