10月7日(日)聖日礼拝

「聖 書」

 主なる神は言われた。

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名前を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

 主なる、神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

(創世記 2章18~24節)

説 教 「助ける者」

本日は「アダムとエバの起こり」の場面ですが、夫と妻について解き明かすのではなく、「助ける者」の意味について、共に御言葉に聴き、続いて「教会」について解き明かしを致します。さて、ここで用いられる「助ける」はエゼルです。このヘブライ語の動詞はアーザルで、「神は私共を助ける」という意味によく用いられます。エゼルについても同様です。このエゼルを英訳にした時にヘルパーが用いられ、コンパニオンが用いられます。助手であり、付き添いに解することができる言葉です。英訳では、エゼルは妻は夫を助ける補助的な存在としての意味として受け取ることができます。夫と妻には主従関係が存在する受け取り方です。しかし、この意味は誤訳です。御言葉に「二人は一体となる」と記されている以上、夫と妻は「二人で一人」という意味です。二人を「ひとつ」にする鍵が「エゼル」です。このエゼルの意味を知る時に、夫婦に主従関係が存在していないことを知ることができるでしょう。私達人間は、神によって造られました。それも「神の似姿」(神の像:イマゴデイ)として人は造られたのです。これは姿かたちが似ているという意味ではありません。人は神の性質(像)に似せて造られたという意味です。つまり神の本質である、「愛」「聖」「義」を持ち合わせる存在として形作られているのが「人」であるという意味です。エゼルは神の性質を映した言葉ですから、この意味についても簡便に受け取るものではありません。エゼルの意味を正しく受け取る時に、人は隣人に対しても「互いにひとつ」になる「助け」(エゼル)を為すことができる存在なのです。パウロはエゼルを正しく受け取っていました。このことはエフェソ書を読めば分かります。パウロはエフェソ書において、「妻と夫」について記しています。そのところを読めば、パウロはエゼルを「仕える」や「与える」、そして「愛する」という意味で受け取っていることが分かることでしょう。つまり、「助ける」(エゼル)は精神的な神の似姿である高次な行動なのです。これを互いに為すときに「二人は一体となる」のです。この意味をパウロは更に拡げて、エゼルをキリストと教会の関係にも適用しています。又、それは勿論、キリストとキリスト者に存在する関係も意味しています。パウロは言いました。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)私共は、このすべてを満たして下さるキリストに信頼して、互いに助け合い(エゼル)ひとつになるのです。