「聖 書」
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちがキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。
(コリントの信徒への手紙 二 5章17~21節)
説 教 「和解の言葉」
私共は今、礼拝の「御言葉」をパウロ書簡を中心に解き明かしを聴いています。パウロは生まれたての教会を愛し、精神共同体である教会を「キリストの愛の共同体」に育てようとしています。ちょうど私共が、伝統ある本教会を「愛の共同体」にしようとしていることと同じように。パウロはコリントの教会へ、実を言うと二回だけではなく、何度となく書簡を送っています。第二コリント書は、その幾つかの書簡をまとめたものとも言われています。第一コリント書には「十字架と復活の主題」が示されています。「共同体の霊性」がキリストの愛に基くものであることを伝えています。パウロはコリントの教会を本物にしようとしているのです。にも関わらずに、一年ほど教会を留守にしている間に、「偽使徒」が潜り込み、パウロの使徒性に疑義を唱える者が出てくる事態にまでコリントの教会は、なっていました。そこでパウロは第二書簡を送ったのです。そこには勿論、パウロの使徒としての正当性が弁明されていますが、最もパウロの伝えたかったことは、「和解の言葉」です。偽使徒たちは「自分を弁明」しました。しかしパウロは「イエス・キリストを弁明」したのです。パウロはユダヤ人キリスト者の策動の結果、彼と教会との関係は危機に瀕しています。にも拘わらずに彼は、自分のことを弁明するよりも、教会の信徒達を愛することを優先したのです。それは彼が「和解の言葉」を神から授かり、託されていたからです。本日の御言葉は語ります。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」ここに記された「和解」はカタラソーです。アラソー(変える)の派生語です。私共の知る「和解」は互いの領分は守りつつの、「折衷妥協」の意味です。自分は「変わらない」という意味です。キリスト教の語る「和解」は、神との和解です。一方的な愛に委ねた変化です。感謝と喜びに満たされた和解です。パウロは、キリスト者は神に赦され、和解の喜びに満たされている者である。そして、キリスト者は、その喜びを携えつつ、神から世に送り出され、和解のために奉仕する者であると語ったのです。ここにこそ真実な教会の姿があります。キリスト者の間に赦しがあり、和解があるところに、平和が生じてきます。そこにこそ「愛の共同体の真実な姿」があると御言葉は語っています。