3月17日(日)聖日礼拝

「聖 書」

しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

(フィリピの信徒への手紙 3章17~4章1節)

説 教 「わたしの喜び」

本日は「喜びの書簡」フィリピ書です。パウロは死期の迫る獄中で、フィリピの教会の人々に「喜びなさい」というメッセージを送りました。パウロの真意はどこにあるのでしょうか。その答えは、本日の御言葉の中にある、パウロの言葉、「わたしの喜び」です。パウロは一生涯を賭けた信仰生活の中で、何を「わたしの喜び」としていたのでしょうか。そして、同じ主を仰ぐ「私達」は何を最も大切な人生の「私の喜び」としているのでしょうか。本日は、御自分の「喜び」とも比べながら、御言葉に聴くことと致しましょう。本日の御言葉が語るように、パウロの喜びは、「復活の体」に変えられることです。信仰者として「自分の十字架」を負い続け、キリストの似姿を追い続けることです。またパウロは自分の事を「目標を目指して歩み続ける信仰者」として、希望を語っています。このことはパウロの喜び、希望であることには間違いはありません。しかし、本日の語る「わたしの喜び」とは、そのことではなく、「信徒」のことです。「教会」のことです。パウロはフィリピの人々に、あなたがたは、わたしの希望であり、「わたしの喜び」であると語っているのです。このことは前章に記された「キリストを模範とせよ」に同じことが語られています。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」(2:2)また前々章には、「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。」(1:8)パウロは教会を愛し、信徒を愛しています。これは何が語られているのでしょうか。パウロは私共が目指す「(キリストの)愛の共同体」の具体的な姿を語っているのです。本日の御言葉の後に、愛の共同体の具体的な実例が語られています。フィリピの教会は紫布の商人ルディアから始まりました。(使徒16:12)そして今は大きな教会になりました。パウロが書簡を送った頃には問題が顕在化している教会でした。それは小さな教会の時には力を合わせていた二人の姉妹が、大きな教会となった今は、互いに意見の対立があり、反目しあっているのです。パウロはフィリピの人々に「勧めの言葉」を送りました。「真実な協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。」この言葉は現代の「あなた」にも届けられています。パウロは教会であっても、問題は起こる、しかし、その時にも「常に喜び」、愛をもって互いに支え合いなさいと、愛の共同体の姿を語ったのです。