「聖 書」
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
(ヨハネによる福音書 8章1~11節)
説 教 「罪を犯してはならない」
イエス様の言葉は、私共の人生そのものを「変える」力があります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント二5:17)本日の御言葉もまた、その同じ意味を私達に伝えています。本日のイエス様の最後の言葉、「もう罪を犯してはならない」。皆様は、このイエス様の言葉を聞いて、どのように感じられるでしょうか。イエス様の要求の高さに、たじろぎを覚えるのではないでしょうか。今、私共はレントの時を過ごしていますが、私共が如何に罪に染まり、罪に打ち勝つことができない「弱さ」を身に纏っていることは、御同輩として感じておられることでしょう。しかし、その罪ある私共の姿を知りつつ、主は「罪を犯してはならない」と言われているのです。これは主のどのような思いが込められているのでしょうか。本日の御言葉は以前の説教でも解き明かしを致しました。「赦し」「十字架の慈しみ」(2010.3.21、2013.3.17参照)その時に語った解き明かしにおいても「主の愛」についてお話ししましたが、主の愛は勿論に語られているテーマです。しかし本日の御言葉は、その主の愛に励まされて、私共の「いのちが変えられる」ことも、テーマとなっているのです。否、私共のいのちが「変わる」ことこそが、いのちに力が与えられることこそが本日の御言葉が語る骨子であると言っても良いと思います。律法学者たちはイエス様を「試す」ために、姦淫の女(レビ20:10)を連れて来ました。「いつも愛を説き、罪人に「良い顔」をするイエスよ、この罪人を裁いてみよ。」この試みは、裁いても裁かなくても、陥穽に嵌まるようになっています。(以前の説教を参照下さい。)人々の目線は、姦淫の女とイエス様に向けられています。その時のイエス様の答えは、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」でした。イエス様は集団となり、自分に目を向けることができなくなっている一人一人に、「自分の罪」を見つめるように、促したのです。今、レントを過ごす私達のように。群衆の群れは、年長者から始まり、一人、また一人と、その場を立ち去りました。年を重ねるとは自分の罪を知る経験を積むということです。罪は個人の問題であり、個人が解決する問題です。主は一人になった女に、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」と言われました。罪があるのを知りながら、「裁かない」と言われたのです。女は罪の世界に帰ります。しかし主の愛を知る女は、罪と戦う力を手に入れたのです。