9月3日(日)聖日礼拝

「聖 書」

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

(ローマの信徒への手紙 12章1~2節)

説 教 「聖なる生けるいけにえ」

キリスト者は、人生そのものが「礼拝」であるとよく言われます。その意味については、本日の御言葉が端的に語っています。自分の体(人間全体)を神に「聖なる生けるいけにえ」として献げることが、キリスト者がなすべき「礼拝」である。皆様どうでしょうか。パウロの語る意味がお分かりになるでしょうか。キリスト者は神礼拝を日曜日にするからキリスト者であるのではなく、パウロは、自分自身を神に「聖なる生けるいけにえ」として献げることを通してこそ、礼拝は為されていると語っているのです。このところの解き明かしは、知的に理解することを避けて、具体的な例話を通して語る方がお分かりになることでしょう。私共の群れの創始者である柘植不知人先生は御自分を神に「聖なる生けるいけにえ」として生涯を明け渡された方です。先生は多くの人生の苦難を通られました。40歳の時に行方不明の妹を捜して神戸まで来た時に、湊川伝道館の集会に出会われ、集会に参加されます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」の聖書の言葉に惹かれたからです。先生は、そこで宣教師ウイルクス師の話を聞き、その日に回心しました。自分の人生を苦しめてきた根本原因である「罪」をはっきり示され、その罪を取り除いて下さるキリストの救いを信じたからです。先生は罪の清算を為そうと、これまでの40年間の生涯で迷惑をかけた人や非礼をした人たちに対してお詫びの手紙を百余通書かれました。これが先生の「悔い改めの実」でありました。そして先生は、その後床屋に行かれ、頭を丸刈りにされます。当時、丸刈りは珍しく、(刑務所帰りと言われていました。)あまり巷で見かけませんでしたが、先生は「私は罪人の頭である」ということを態度で表明されたのです。ところが先生は、そのような態度表明を為す救いを経験してもなお、自分を苦しめる問題がありました。それは「自我」の問題でした。先生は日本伝道隊(関西聖書神学校)に献身されていましたが、なお失敗に備えて、御自分の商売道具を手にされていました。先生は未だキリストに明け渡していない自分を示されました。そのことを示された先生は、「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。今はキリストが私の内に生きておられるのである。」の黙示が与えられ、その晩、商売道具を捨て、全き献身をなされました。先生は御自分を神に「聖なる生けるいけにえ」として献げられたのです。先生は霊的な勝利を手にされました。