1月14日(日)聖日礼拝

「聖 書」

少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼はめがかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言ったので、サムエルは戻って寝た。

主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。」もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」…

主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」…

サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。

(サムエル記上 3章1~10、19節)

説 教 「お呼びになったので参りました」

先週の「新年礼拝」において、2024年「教会標語」を戴きました。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」です。この「いのちの光」を受けることは、「聖霊を受ける」ことと同じ意味です。では「聖霊を受ける」は「どのようにして受けるのか」。この答えを先週の有志の牧師会「バックストン勉強会」で学んできました。バックストン先生の説教集の中にある「能力の秘訣」に、それは記されています。本説教の最終章第八章に「どのようにして受けるのか」があります。そこに「聖霊を受けるための条件」が3つ記されています。一つ「心と生活において「神に従う心備え」のできている者が助け主を受けることが出来る。」二つ「キリストの弟子の一人が聖霊を祈り求めるならば、昇天された私たちの主の力ある祈りの答えとして、聖霊が注がれる。」三つ「期待する信仰をもって待ち望みなさい。絶え間ない祈りをもって待ち望みなさい。まったく自己を放棄して待ち望みなさい。いよいよ主を待ち望みなさい。あなたの求める聖霊は突然あなたの心に来て、清新な臨在をもってとどまられます。」バックストン先生の真骨頂です。本日の御言葉は、今、語りました信仰の真実を具体的に語るものなのです。有名な「少年サムエルの召命物語」です。サムエルは聖霊を受けたのです。何故、彼は聖霊を受けることが出来たのか。その答えを説き明かすことが、本日の目的です。まずは本日の御言葉につながる概観です。サムエル記から続く後書は「イスラエル王国史」です。神政から王政への転換期を語る書がサムエル記です。本書の主人公は「ダビデ」に見えますが、本当の主人公は神です。ですから「サムエル(その名は神)」から始まっているのです。神は最後の裁き司であり預言者であるサムエルを立てられました。これはハンナの祈りに応えるためであり、ならず者の祭司を断つためでした。全ては神の計画の中にあります。サムエルは預言者の資質がありました。「神に従う心備え」がありました。一度も聞いたことのない神の声を聴き、すぐにエリのところに行き、「お呼びになったので参りました」と心備えを示しました。神の声であることを悟ると、「お話しください。僕は聞いております。」と僕の心を示しました。最後に19節に、「主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。」とあります。神の言葉が彼の従順をして全て成就したのです。サムエルは光を受け、「光と共に」歩んだのです。