1月21日(日)聖日礼拝

「聖 書」

主の言葉が再びヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」

ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。

「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」

すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王位を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。

「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我我は滅びを免れるかもしれない。」

神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

(ヨナ書 3章1~10節)

説 教 「ヨナは主の命令どおり」

「ヨナ書」は誤解されて読まれる書です。ヨナは預言者でありながら、託宣から逃げた臆病な者という誤解です。しかし、それは誤解です。逃げた後の行動の中に、彼は難破しそうな舟の中で、ぐっすりと眠り、起きては異邦人の為に自ら命を投げ出すことが出来た者であったことが記されています。「ヨナ書」を正しく読めることは、聖書を深く知るための指針となります。本日、御言葉より、神の愛と神の計画の「使信」をしっかり学びましょう。本日の御言葉は3章です。その初めに、「主の言葉が再びヨナに臨んだ」とあります。「再び」に神の深い愛と忍耐と導きがあります。ヨナは何故託宣から逃げたのでしょうか。それは、ニネベ(アッシリア)が、神により滅ぼされることを望んだからです。ヨナは神が憐れみ深い方であることを知っていました。(4:1)彼の宣教にてニネベが救われて欲しくなかったのです。彼は祖国の為に殉教しても良いと考え、神から逃げたのです。アッシリアは、イスラエルの敵国であり、残虐に満ちた「悪の町」でした。イスラエルの為には滅んだほうが良い国です。しかし滅んで良い国も滅んで良い人も神の前にはありません。(4:11)神の言葉に逆らったヨナを神は見放すことはありませんでした。神は預言者に最後まで神の言葉の責任を果させます。「愛」が成就する為です。ヨナは有能な預言者でした。エリシャの弟子であり、神に用いられた者です。(列王記下14:25)ましてや、主イエス御自身がヨナのことを「しるし」と呼ばれています。(マタイ12:39)「ニネベの悔い改め」は何故起こったのでしょうか。それはヨナが「主の命令どおり」行い、神の言葉を語ったからです。ヨナは自分の不思議体験(大魚)も語ったでしょう。嵐から救われた水夫たちが「口コミ」で証言したかもしれません。神の業に不思議はありません。全ては神の計画です。神の忍耐です。ヨナは大魚の腹の中で悔い改め、「救いは、主にこそある(最善)」と叫びました。そして、いけにえを献げて、「誓ったことを果そう」と言いました。主の言葉どおりに従うという意味です。魚の口から出てきた彼の手は「祈りの手」でした。(週報挿絵)ヨナはキリストの予型であり、イスラエルの予型です。ヨナは三日三晩、魚の腹の中でいて生き返りました。「死と葬りと復活のひな型」です。その「しるし」ゆえに罪人が救われました。イスラエルも又同じです。主に真に立ち帰り主の言葉に従い証しする者が救いを広げる者とされます。