1月11日(日)聖日礼拝

「聖 書」

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

(マタイによる福音書 3章13~17節)

説 教「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」

本日は「主の洗礼」の場面の御言葉です。この「主の洗礼」の出来事は、「主の御降誕」「公現」に続く救いの実現の神秘を語るものです。主は何故、罪のない方であるのに、私共と同じように洗礼を受けられたのでしょうか。この神秘を知ることは「洗礼」の深淵な恵みを知ることと同義です。その答えを知る為に、本日の中心聖句を見ましょう。本日の中心聖句は15節です。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」という主イエスのお言葉です。何故、主が「水の洗礼」を受けることが「正しいこと」なのでしょうか。この意味は人にとって正しいこと「人の義」のことを語っておられます。本日の場面は主の「公生涯のはじめ」です。洗礼者ヨハネから主に神の救いの計画のバトンが渡される場面です。主は「我々(人間)」にとって「正しいこと」を行われました。洗礼者ヨハネは預言者時代の終わりを告げる者です。彼は預言者エリヤの再来として、メシア到来の「道備え」をする為に、人々に悔い改めを迫り、「水の洗礼」を授けていました。ヨハネの時代は「水の洗礼」を受けることが神の計画に参与する「人の正しい行い」なのです。人の正しい行いとは「神に従う行い」のことです。主は預言者の終わりの時代に「人の正しい行い」を為されたのです。このことは「受肉の神秘」を語ると同時に、主の「へりくだり」を語るものです。「主の洗礼」の時に起こる出来事、神の霊が鳩のように降り、神の声が天から聞こえました。「正しい行い」に対する神の「あかし」です。このところから「福音宣教」が始まります。貧しい者へ福音が告げ広められるのです。イザヤ書61章の預言の成就が始まるのです。主は、何故「貧しい者」へ福音を届けることができたのでしょうか。それは主イエスが貧しい者を理解していたからです。貧しい者が飢え渇き、必要が満たされていない現実を知っておられたからです。これは先週に私がお語りした、牧師として「神の前に跪く」ことで「信徒の飢え渇き」を知り、まことに祈ることができるようになったことと同じ意味です。主は、神の前に全き「へりくだり」を通して、「貧しい者への福音」が何であるかをよく知っておられたのです。主は油注ぎ(聖霊のバプテスマ)を受けられました。「まことの王」の任職です。主は力を受けて、福音を実現していかれたのです。今は「恵み(聖霊)の時代」です。現在の私共の「正しい行い」とは何でしょうか。それは主より「聖霊のバプテスマ」を受けることです。私共は神の民として相応しく歩んで参ります。