「聖 書」
しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐みによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
(テトスへの手紙 3章4~7節)
説 教 「新たに造りかえる洗い」
「霊の祝福を生きよう」2025年の目標です。本日はテトス書を通して、具体的な「霊の祝福」を得るためのステップを語ります。初めのステップは「祈り」です。私は日々に祈りを欠かしていませんと言われる方もあるでしょう。では、その「祈り」には、どのような効用があるでしょうか。「私の祈りは聞かれない」という声を聞くことがあります。それは「私の願いが聞かれない」という意味ではないでしょうか。「祈り」とは神との交わりであり、「霊の呼吸」なのです。具体的に語りましょう。テトスはクレタ島の教会に遣わされました。クレタ人は「うそつき、悪い獣、怠惰な大食漢」(1:12)という民族性がありました。福音の力をもってしても彼らの「自己中心」を変えることができません。パウロはクレタの教会の「権威」の回復のために、同労者テトスを教会に送り、指導の書簡を送ったのです。テトス書を要約すると「権威と服従」について書かれたものと言えます。「権威」とは「神御自身」のことです。皆様は不思議に思ったことはないでしょうか。主イエスには「権威」があった。聖書の語る如くです。人から見たら市井の人であった主に何故「権威」があったのか。それは勿論、主が「神の子」であったからです。しかしそれだけではないのです。「人の子」であった主は、「完全に神に聴き従う者」でした。つまり、主イエスの語られた「言葉」は「神の言葉」であったということです。使徒の言葉には「権威」がありました。「神の言葉」であったからです。「神の言葉」はいつ授かるのか?それは「祈り」の時です。そこに「自分」も「不信仰」もありません。先週は「公現日」でした。三博士は「マギ」であり、「天文学者」「魔術師」とも訳します。彼らは主に仕事道具(自分と悪)を捧げたと解釈する聖書学者もいます。(別紙)クレタの人々は神に祈りを捧げ乍ら、なお今も「自分を神とする生き方」を捨てることができなかったので、「権威」がなかったのです。私共が霊の祝福を生きる為には「祈り」は不可欠です。本物の祈りには効用があります。祈りは「自分の罪を認める(認罪)」ところへ導かれます。「聖霊の洗い」です。自分が如何に「自己中心」であるか、「不信仰」であるかを知らされます。不信仰は悔い改めに導かれます。私共にどんな困難が訪れようと、「神は完全な方」「神は良い方」であることを信じる信仰に導かれます。「赦し(贖罪)」であり、「魂の救い」です。これが「祈りの効用」です。ここに至ると「いつも喜びと感謝」が溢れてきます。私共は祈りをもって生き、永遠の命を受け継ぐ者とされます。