1月15日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしに言われた。あなたはわたしの僕、イスラエル。あなたによってわたしの輝きは現れる、と。わたしは思った。わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である。

主の御目にわたしは重んじられている。

わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ、イスラエルを集めるために、母の胎にあったわたしを御自分の僕として形づくられた主は、こう言われる。

わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。


(イザヤ書 49章3~6節)

「主の御目にわたしは重んじられている」

「公現節」に入りました。講壇の蝋燭は消えてなくなったのではなく、私共の心の中に「キリストの光」は灯し続けています。「キリストの光(オール)」は喜びです。希望です。「キリストの光」は、私共を一年中灯し続けます。さて本日の御言葉は「主の御目にわたしは重んじられている」(49:5)と告げます。何故でしょうか?それは先週お語りした如くに、「起きよ、光を放て」と私共の上に「主の栄光が現われる」光の中を歩んでいるからです。本日の御言葉で語るならば、(6節)「わたしはあなたを国々の光(オール)とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」が、その「答え」です。これは勿論、キリスト者の「派遣」も意味しています。これは、その通りなのですが、このところの解釈として、このところの「僕」はイスラエルか、キリストか、個人かという論議があります。49章は「主の僕(第二歌)」で「僕」は一人称です。私の説き明かしは、イスラエルはキリストの予型であるという解釈です。現在は「教会時代」です。ですから「派遣の命」も個人のものではなく、「キリストの命の派遣」です。ですから、本日の御言葉はキリスト者の「派遣」を意味しているとも解釈します。パウロ先生はローマの信徒への手紙11章で「異邦人の救い」を語られました。(25.26節)に、「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達する(プレローマ)までであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」と語っています。パウロ先生は本日のイザヤ書を解釈しているのです。しかし皆さんの中には、主の証し人としての働きがなければ、主に重んじられないのかという疑問を持たれる方があるかもしれません。それは誤解です。本日の週報に(イザヤ書43章4節)「わたしの目には、あなたは高価で尊い」を印刷しておきました。これは神の愛の本質(アガペー)を表しています。(アガペー)は「あなたに価値があるから愛するのではなく、あなたのその「あるがまま」を愛する愛」を意味しています。また、自分に価値を見出せずに生きる意味を失っている人に、「その人の中に、価値を造り出す愛」です。そのままで生きていっていいよと思わせてくれる受容の愛です。これは(49:4)で示された「失敗の人生」から神に立ち帰らせ、「新しい使命」を与える愛です。「主の僕」は人格化されたシオンの姿です。私共は生まれる前から主に召され、使命を生きる喜びを与えられたのです。