1月20日(日)聖日礼拝

「聖 書」

賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に〝霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には〝霊″によって知恵の言葉、ある人には同じ〝霊″によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ〝霊″によって信仰、ある人にはこの唯一の〝霊″によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の〝霊″の働きであって、〝霊″は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

(コリントの信徒への手紙 一 12章4~11節)

説 教 「全体の益」

本日の説教題は「全体の益」です。ここでパウロの語る「全体」とは何を指しているのでしょうか。「教会」のことでしょうか。本日は、そのことに込めたパウロの思いを知ることが、御言葉の解き明かしとなります。パウロはコリントの教会に向けて、手紙の冒頭にて、このように語っています。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(1:10)パウロは生まれたばかりの小さな教会であるコリントの教会に、仲たがいや争いがあることを憂いていました。そこで手紙を送り、主に連なる「友」として「主による励まし」を与えたのです。本日の御言葉は、その要旨となる箇所ですが、まず誤解を避けるために、「全体の益」の「全体」のことについて解き明かします。パウロは「仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」と語りますが、それは教会「全体」のために、自分を押し殺して「我慢」しなさいということなのでしょうか。それは勿論違います。このことを知る為には「教会」とは何かを知っておく必要があります。教会とは「建物」でもなく、「儀式」でもなく、「形」でもありません。教会とは「あなた」のことです。「わたし」のことです。信仰者自身の事です。「全体の益」とは「あなたの益」になるという意味なのです。しかし、あなたは今、自分の為に生きているのではありません。キリスト者としてキリストの命を生きているのです。ですから「あなたの益」となるということは「教会全体の益」となると同義です。このところは思い違いをしてはなりません。「全体の益となる」とは、信仰者である「自分を生かし」、「真実な教会を形造り」、教会が「キリストの体となる」という意味です。いよいよ豊かに「実りある教会」になるということです。しかし何度も繰り返しますが、「実りある教会」になるとは、主に呼び集められた者の一人一人が霊に満たされ、共に祈り合い、愛し合い、繋がり合うことを通して、為すことができるという、「一人一人の信仰者の豊かさ」があって初めて為す事ができる祝福なのです。主に呼び集められた一人一人には、主から「霊の賜物」を与えられています。私共は、それを感謝して受け、大いに「用い」なければなりません。そうしなければ悪魔に祝福を奪わわれてしまいます。私共一人一人は、霊の賜物を生かしながら、「全体の益」に供し、天国の先駆けを造ってまいりましょう。