1月25日(日)聖日礼拝

「聖 書」

 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

(マタイによる福音書 4章12~23節)

説 教「悔い改めよ、天の国は近づいた」

「主の洗礼」に始まり、主の「公生涯」が始まりました。イエスはバプテスマのヨハネの言葉を引き継ぎ、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言われました。この言葉はバトンが引き継がれたの意として受け取って良いとは思いますが、底本であるマルコ書は、イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたとあるのです。こちらの方が良いのではないでしょうか。それとは別にマルコ書にはイザヤ預言は書かれていません。これはマタイ書の「神学的意味」を理解する必要があるのでしょう。そのことも含め、もう一つ「四人の漁師を弟子にする」の場面では、ペトロたちがイエスの言葉に「すぐに」従うということに対しても説明が必要であろうと思います。並行記事のルカ書では「時系列」があって、主の言葉に「従う」とあることのほうが納得できるからです。ではマタイ書の「意図」は何なのでしょうか。それはメシアは「ガリラヤで伝道を始める」ことが預言の成就であることを伝えたいと言うことです。それは15節以降のイザヤ書の預言です。「異邦人のガリラヤ」に福音が告げられる預言です。イエス様の当時はガリラヤは異邦人のガリラヤではなく、イスラエルの地でした。しかし、この地方はアッシリアに侵略され、雑婚が進み、偶像礼拝も行われる地でした。ですからイスラエルの地となった当時でも純粋なユダヤ人からは「暗闇に住む民(神から離れている者)」として蔑視されていたのです。マタイはメシアは、その「蔑視されている者たちの地」に神の御旨として「降り立った(住む:インマヌエル)」ことを告げたのです。「退かれた」(アナコーレオー)は出エジプトや聖家族がエジプトに行くときの言葉と同じです。主は神の時を生き、神の御旨に従っているのです。ガリラヤに生きる者は自分が「暗闇に住む者」であるという自覚は無かったと思います。私たち罪人と同じです。そこに主が来られるのです。主が福音を告げられても、「すぐに」従う人などいないでしょうと思うのが普通です。しかし、どんどん弟子は増えていったのです。時系列が分かり易いルカ書を見ると、そのところの説明は5章に記されてあり、顔見知りとなっていたペトロに「沖に漕ぎ出し」漁をせよと言われ、その後、奇跡を見たペトロが「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白します。主イエスの「光」は私共が暗闇の住人であることを理解させ、主に救いの「光」があることを悟らせます。光に出会う体験は理屈ではありません。「すぐに」は光との出会いを語っています。