1月26日(日)聖日礼拝

「聖 書」

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこで聞きますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。

(コリントの信徒への手紙  12章12~27節)

説 教 「一つの体となるために」

1月の最終週を迎えました。2025年「教会標語」の説き明かしの最後として、ステップ3の「聖化」についてお語りします。「同じ約束にあずかる者となる」は「標語」の一段落目と似ていますが、一段目は「共同相続人となる」の意味です。本日の言葉の意味は「共同参与者となる」のことです。共に約束に与る(あずかる)のです。ここに集う一人一人は「キリストの体」(教会=天国)を神に建て上げて頂くときに、誰一人「欠けることはあってはならない」の意味です。現在、本教会は、キリスト者とされて育てられてきた環境が違う方々が集っています。コリントの教会に集まる会衆も「雑多な集団」でした。当然と言って良いでしょう。分派や分争、対立がありました。「強い人」と「弱い人」の区別があったと採る学者もいます。心を合わせて「一つ」の共同体になっていなかったということです。教会は「一つ」になることが大切なのです。本日の御言葉は語ります。(12:13)「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。」教会が「キリストの体」」として「一つになる」ことは神の御旨です。そこに神の愛と計画があるからです。しかしこのことは「形」や「目標」ではないのです。目標の達成のために、「教会全体主義は×」です。「徹底的な個人主義も×」です。「キリスト者は皆「同じようにならなくてはならない」も×」なのです。「それぞれがそれぞれでいていい」が教会の〇の姿であるとパウロ先生は、本日の御言葉で語っているのです。本日の言葉を悟る者は「霊の祝福を生きる」の意味を知り、「聖化」の意味を知ることができます。週報の挿絵を御覧下さい。イエス様の優しい眼差しの前に、子供たちが楽しそうに集っています。良いお母さんには、良い子供が育ちます。良い家庭となります。良い先生には、良い子供が育ちます。良い学級となります。主は良いお方です。良い信徒が育ちます。主のおられるところは、天国となります。何が秘訣でしょう。愛と慈しみの中で見守る眼差しが秘訣ではないでしょうか。私共は自分を大切にしてくれた人のことを忘れません。人々が見捨てるときも、自分を信じて待ってくれている人がいることは。どんなに力と支えになることでしょう。私共は、その人の愛に応えたいと願い、その人に倣いたいと願う者となるものです。これが私共がキリストを愛することを通して体験する「変革」です。「キリストに似た者とされる」(聖化)への道程なのです。この道程が教会を「一つ」にする力であり、「霊の祝福を生きる」愛の共同体の唯一の道です。