1月29日(日)聖日礼拝

「聖 書」
イエスはこの群集を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
(マタイによる福音書 5章1~12節)

「心の貧しい人々」

「山上の説教」はキリスト者の歩む生涯の道であると言われます。(「謙遜の祈り」正教会)この意味はキリスト者の生涯が神の救いの道であり、神の義の道であるからです。この道は「幸い」(マカリオス)です。天の国を得た道であるからです。本日の御言葉の冒頭に、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」とあります。「この群衆」とは、前節を見ると「神の救いを求める人々」であったことが分かります。「貧しい人々」「悲しんでいる人々」「救いを求める人々」「憐れみを求める人々」「心の清さを求める人々」「心の平和を求める人々」総称して「心の貧しい人々」であったことが分かります。ここで語る「心の貧しさ」とは旧約聖書が語る「霊において貧しい」という意味です。この意味は(詩篇22編・イザヤ書61章・エレミヤ書20章)に記された「魂(霊)の渇き」のことです。以前にも語りましたが「山上の説教」は並行記事として、ルカ書の「平地の説教」があります。ルカ書には「心の」という言葉はありません。元の口伝はルカ書であり、マタイは編集句として「心の」を加えたというのが定説です。何故、マタイは「心」を加えたのか。それはキリスト者の道の理念化であり道徳的要請を加えたのだと言われます。この解釈は是認できますが、この意味を更に深く知る必要があります。「心の」はキリスト者の精神論ではありません。御言葉の前節を見るならば、貧しい人々は本当に「いやされている」のです。救いを体験しているのです。これはルカ書が語る記事とも符合します。マタイは主イエスに聖書の預言の成就を見、その意味を「山上の説教」を通して、語ろうとしています。主イエスは「貧しい人々の心(霊)」を見て(エイドン)、山に登られ、腰を下ろされたのです。この意味はモーセの民への律法授与と重ねています。主は律法の本質を語り、律法の完成を語られ、貧しい人々に「福音」の律法を与えられたのです。まことの救い「律法」「神の義」が訪れたことを語られたのです。「心の貧しい人々」は自分に救いがないことを知っています。自分が不信仰であることも知っています。「魂に飢え渇く」人々の前に主イエスが来て下さいました。救いが訪れたのです。主イエスを信じ、救いを求める者はすべて救われます。週報の挿絵を御覧下さい。私には2枚の挿絵は同じに見えます。心の貧しい人々が共にあり、幸いな姿です。天の国は貧しい人々と共にあります。人々はそこに集まるのです。