1月6日(日)聖日礼拝

「聖 書」

キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補いあうことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

(エフェソの信徒への手紙 4章1~16節)

説 教 「愛の共同体」

本日の御言葉は「キリストの体」を語るものです。キリストの体とは「教会」のことです。つまり、本日記された御言葉は、私達キリスト者が如何なることを目指して成長していくのかということを語っているところということです。特に16節は大切なところです。本年の教会標語は、「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補いあうことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」の、この16節と致します。このところを一言で語るならば、「愛の共同体」です。私達教会が目指すべきところです。私共は、一(いち)信仰者として教会に来ていますが、本日の御言葉が語る如く、私共一人一人がお互いに補い合いながら「教会形成」に参与しているのです。聖会の中で教会は私共の事であると述べました。本日の御言葉も、そのことを語っています。私達は教会形成の責任を負い、「おのおのの分に応じて働いて、キリストの体なる教会を成長させていく」一人一人の責任があるのです。では、「教会成長」とは何でしょうか。教勢の拡大の事でしょうか。それはそうではありません。パウロが語る、このところにおいての「教会の成長」とは「キリストの体」を造り上げていくことです。では「キリストの体」とは何か。それはプレローマ(充満)です。プレローマとは「満ちる」や「完全にされる」という意味です。キリスト教界では古より、「キリストが 神のプレローマであり、教会はキリストのプレローマである」と言われてきました。このプレローマは「神の愛」と言い換えても良いでしょう。つまり「キリストの体」(教会)は「神の愛」の満ちているところなのです。ですから私共は「教会形成」「教会成長」の為に、このプレローマ(神の愛)で満たされなくてはなりません。これは自己努力ではありません。聖書には「神的受動形」がよく用いられます。例えば「復活」は自らの力で為す事の出来ない「業」です。復活は「復活させられた」(受動形)と言います。キリスト者は神により「復活させられる」のです。本日の御言葉でも又、「組み合わされ」「結び合わされて」とあるところは「受動形」です。誰が為すのか、それは神が為されるのです。16節の最後に、「自ら愛によって造り上げられる」とあります。これは「自らの愛」ではありません。この愛はキリストの愛のことです。以前の口語訳では「愛のうちに育てられていく」となっていました。私共は本年「愛の共同体」を造り上げられて参りましょう。