10月1日(日)聖日礼拝

「聖 書」

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊„による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

(フィリピの信徒への手紙 2章6~11節)

説 教 「互いにこのことを心がけなさい」

先週の御言葉の続きです。パウロ先生は2章に入り、フィリピの信徒の人々に向けて、「一致の勧め」をしています。フィリピの教会には残念ながら、「不和」がありました。理由は、「利己心」「虚栄心」「嫌悪心」においての不和でした。「不和」は神の前に卑しい自己を忘れた、恥ずべき自己追求の姿です。教会における不和や対立は頭と口で十字架のキリストを崇めつつ、足で十字架を踏みにじる行為です。不和を解決する方法はあるのでしょうか。それはあります。キリストを模範とすることです。具体的には「謙遜(へりくだり)」(タペイノス)です。パウロ先生は勧めます。「あなたがたにキリストの愛があるならば「ひとつ」になりましょう。」そうなるなら、パウロの喜びは満たされますと冒頭で語られました。そして「へりくだり」を語られました。5節にて「互いにこのことを心がけなさい」と強調されました。「このこと」とは何でしょうか。それは勿論、「へりくだり」です。「このことを」は「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」を指す指示語です。このことはキリスト・イエス「にも」みられるものだと先生は続けて語られ、「このこと」は後節にもかかっていることを教えています。そこには何が記されているか。そこには「キリスト賛歌」が告白されています。有名な御言葉です。この御言葉は「一致の勧め」にて挿入されたものでした。キリストは神の身分(本質)であることに「固執すべき」(ハルパグモン)と考えませんでした。意訳するならば、「神の本質を己の利益のために用いない」ということです。これが「無にする」(ケノーシス)の意味です。自分に死ぬことは「罪に死ぬ」ことです。私達は、「謙遜」によって、自愛心や虚栄心を取り除くことが出来ます。そのことは「まことの命を得る」ことでもあります。週報の挿絵を御覧下さい。主を信じる者どうしが「茨の冠」を共に握り合っています。「心を合わせて、思いを一つにしなさい。」とあります。「自分の十字架を負う」とは自分の試練を語るものではありません。主の十字架が「愛の極み」であったように、十字架は愛を表しています。ですから「十字架を負う」とは「他者の痛みを担う」ことです。それはまことの「愛の人生」です。(2019.4.14参照)主に倣う人生は愛に満ちた喜びの人生です。へりくだりの人生は私共の特権です。