10月15日(日)聖日礼拝

「聖 書」

貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。

フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働き参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。

(フィリピの信徒への手紙 4章12~20節)

説 教 「必要なものをすべて満たして」

(4:19)「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたの必要なものをすべて満たしてくださいます。」先週の続きであり、フィリピ書の結びです。フィリピ書はパウロ先生の複数書簡を一つにまとめたものであるとも言われます。その主張を受け入れるなら、本日の箇所は「最初の手紙」の部分となります。その手紙の内容は、牢にある先生を見舞い、フィリピからの贈り物(献金)を戴いた事に対する礼状です。その感謝を述べる内容は窮状を救う思いに対するものよりも、教友として共に神の働き人とされていること、教会の益となる豊かな実を結ぶことを願い、そうなることを確信して喜んでいることを告げるものです。聖書学者バークレーは、この処を「神の富は、神を愛し、隣人を愛する人々に開放されている。贈り物をする人は、決して以前にもまして貧しくなることはない。むしろ、自分の贈り物が神の賜物と富を開放することになるため、以前にもまして富んだ者とされる。」と語っています。これは旧約に記されたマラキ書3章の御言葉を語るものです。「献げ物によって、わたしを試してみよ。天の窓は開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」とあります。そして続きには、「諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。喜びの国となるからだ。」と約束されています。このことは、私の経験からも確実なことであることを断言します。本日の御言葉は多くの献金をする者が祝福されるという意味ではありません。「神の富は、神を愛し、隣人を愛する人々に開放されている」という意味です。パウロ先生はマケドニアでの伝道で、窮乏し、窮状に出会いました。その所での実りである「教会」に集う人々も窮状を経験しました。(使徒16.17章)その後に、パウロ先生は、教会の窮状を救う為に、献金を募りました。マケドニアの人々は「神を愛し、人を愛する」思いを持ち、自らは窮乏の中にありながら、何度も「贈り物」を捧げたのです。その思いを見る神は、「彼らに必要なものをすべて満たす」祝福の神です。「必要なものをすべて満たす」これは金銭のことだけを語るものではありません。私共は「金銭」「健康」「家族」「仕事」「人間関係」等のすべてが満たされても「不足」を持つ者です。ここで語られる意味は、どのような時も、どのようなことが起こる時でも、「神の平和が守る」の意です。私共に主がおられるなら、「幸せな者」、「喜びの国」と呼ばれます。