「聖 書」
だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
  神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。
(テモテへの手紙 二 3章14節~4章2節)
説 教「聖書はすべて神の霊に下に書かれ」
「わたしの仕えている主は生きておられる」先週のエリシャが語る御言葉です。この言葉は「霊を生きる信仰者」の真実な言葉です。彼はエリヤから霊の賜物を受け取りました。聖書には多くの継承物語が記されています。人間の始祖であるアダムから始まる「エデンの園」の物語。この物語も又、人間は神の霊を離れては「エデンの園」(御国)を継承できないことを語るものです。信仰の父であるアブラハムからイサク、ヤコブへと信仰が継承されました。それぞれの子が主体的に主を仰いだのです。先週で言うならば、エリヤ、エリシャ、ヨナと預言者もまた、霊の継承を受けているのです。本日の御言葉は、パウロ先生が自分の最期の時を知り、愛弟子テモテに「最後の勧め」をするところです。先生は「自分が学んで確信したことから離れてはなりません。」と勧めました。テモテは「聖書」から学んだのです。それもイエス・キリストを信じる信仰を通して、主イエスから直接に学んだのです。これは啓示を受けつつ聖書を学ぶと言うことです。先生は15節と16節の「聖書」を違う言葉で置き換えました。15節「聖書」は(ヒエラグランマタ)で「聖なる諸文書」のことです。16節「聖書」は(パサグラフェー)で、単数形で書かれています。新約聖書ではこのところにのみ用いられている言葉です。直訳するなら「聖書の全ての箇所」となるでしょう。4章2節に記された「御言葉を宣べ伝えなさい」と語られている「御言葉」は、この「聖書」(パサグラフェー)を受けて語られている言葉です。私達は主イエスを「御言葉」と告白しますが、このところに記されている意味です。私達は聖書を主イエスの信仰を通して学ぶときに、「霊の知恵」が与えられます。学んだ者は「教える」ことができるのです。ここにバルトセレクションの「聖書と説教」があります。収載された中から3編「神の言葉への奉仕」(48歳)「聖書の権威と意義」(61歳)「イエス・キリストについての証し」(82歳)を紹介します。バルトは晩年に「証し」を語ることを求められました。「イエス・キリストとは、「私」にとって如何なる方か」彼は面食らいながらも応えます。「イエス・キリストは、すべての者に対して語られている神の言葉である。私は、心と口と手をもって、この方を、神の愛の言葉として証しするようにと、力と委託とを与えられる。」私共キリスト者の全生涯は「証し」です。聖書はイエス・キリストを語るものです。御言葉は主イエスです。私共は聖書を読み、祈り、知恵と力を与えられ、天国の生涯を歩みます。そして折が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えます。