10月29日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州とアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。

(テサロニケの信徒への手紙 一 1章5~10節)

説 教 「聖霊による喜び」

(1:5)「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」この「よったからです」は(ギノーマイ)のアオリスト受動態の(エゲネーセー)です。この意味を直訳すると「出来事となった」です。この受動態が「神的受動形」であることを踏まえると、「聖霊の働きにより成った」と訳すことができます。パウロ先生の伝えた福音は「聖霊の働きにより成り」、「聖霊の働きにより、教会の霊的成長は成り続ける」ものであることが、この直訳から分かります。この後も頻繁に先生は(エゲネーセー:成った)を用いられています。信者の模範となるに至ったも(エゲネーセー)です。先週に語った如く、先生の喜びであるテサロニケの聖徒たち。彼らは、先生の去った後も「霊的成長」を遂げていました。「信仰によって働き、愛のために労苦し、希望を持って忍耐していた」のです。彼らの信仰は「信者の模範」であり、彼らの信仰を通して主の言葉がギリシャ中に「響き渡り」、神に対する彼らの信仰が至るところで伝えられていました。なんと素晴らしいことでしょう。彼らは何故、そのような成長を遂げることが出来たのでしょうか。それは彼らが、ひどい苦しみの中で、「聖霊による喜び」をもって御言葉を受け入れ、パウロ先生たちに倣う者、そして主に倣う者となったからです。私は、この事の意味をよく理解することが出来ます。私も聖霊(神の愛)の働きによって信仰を得、御言葉を受け入れました。洗礼に授かり、信仰生活を送る中で召命の恵みに浴しました。私は相応しくない者であると思いました。そんな時に、マザーに出会いました。「日本人は精神的に貧しい」と言われた言葉に、私は反応しました。マザー、ここにもキリスト者はいますということを伝えたくて、社会に目を向け、「愛のために労苦したい」と願いました。それからのことは皆様の御存知の通りです。「教会の始まり」は、その全てが「先達に倣う」ことから始まるのです。そして先達を動かしていたものの信仰を知り、主の姿を知るのです。そして遂には「主に倣う者」となり、「キリストの香りを放つ者」とされていくのです。本日は「聖霊聖会」です。多くの未信者の方が来られます。私共も又、「教会の始まり」の恵みに浴しています。聖霊による喜びに満たされましょう。そして主に倣う者とされましょう。その時、私共は「本物」となり、「本物の教会」となり、多くの人が信者となります。