10月5日(日)聖日礼拝

「聖 書」

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではないだろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことを果たしたなら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

(ルカによる福音書 17章5~10節)

説 教「わたしどもは取るに足りない僕です」

本日は「召天者合同記念礼拝」です。午後からは「墓前礼拝」を執り行います。講壇の前に並べられた写真の方々は「御国を生きられた方々」です。本日は、「御国を引き継いでいく」「神の国があり続ける」秘訣について、お語りします。本日の御言葉は、17章の冒頭に記された「弟子たち」に向けて語られた信仰者の生涯である「赦し、信仰、奉仕」の箇所です。使徒たちは主に「わたしどもの信仰を増してください」と願いました。人を無限に赦すことなどできないと思ったからです。自分の不信仰を知り尽くしていたからです。その願いに対し主は「からし種一粒ほどの信仰」の話をされました。「信仰があれば」桑の木である不信仰を海に沈めることができる。信仰の山を移して来ることができると言われたのです。これは以前に語ったことです。主は、この話の後に「奉仕」の話をされました。信仰者に託されている「奉仕」(ディアコニア)のことです。私共キリスト者は世にあって「御国を託されて」います。「畑を耕し、羊を飼う」のです。「愛の国(御国)の実現」を託されているのです。しかし私共にはその力はありません。「不束な僕」です。主は「仕える」(ディアコニア)を徹底できても尚、「取るに足りない僕」と言いなさいと言われました。へりくだりの意味ではありません。事実を語っておられるのです。自分に正直であれということです。では何故、その分かり切っていることを主は言いなさいと言われたのでしょう。それは信仰の恵みを語るためです。私共が「不束な僕」(アクレイオス)「役に立たない僕」であるにも関わらずに、主は、あなたがたに「御国」を託されて、務め「奉仕」を与えられているという恵みを教えるためです。信仰は「増す」ものではありません。信仰は「ある」ことに真実があるのです。私共には病を癒す力も悪霊を追い出す力もパンを増やす奇跡を為す力はありません。しかし弟子ならばできるのです。主が語られた僕は使徒たちです。現に彼らはできたのです。(ルカ10:17)そのような奇跡ができても、あなたがたは「不束な僕」である。にも拘わらずに、主は力を与え、奇跡(しるし)を為させ、世に仕える生涯を通して「御国を実現」させる。正に、このことを私共は目にしてきたのではないでしょうか。写真の先達は自らの「小ささ」を知り尽くし生きられた。そうであるから私共に、「御国を見せる」ことができたのではないでしょうか。私共に愛を与え、神の国があり続けるために、御国を引き継いでいって欲しいと願われたのではないでしょうか。先達の生涯が御国があり続ける秘訣です。