10月8日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

(フィリピの信徒への手紙 4章2~9節)

説 教 「平和の神はあなたがたと共に」

「あらゆる人知を超える神の平安が、あなたがた(私達)の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」この御言葉が本日の中心です。フィリピ書も後半に入り、今日を入れて、あと2回になりました。当事者の登場です。しかし教会にて巻き起こる葛藤や対立は、個人の問題を孕みながらも「教会の問題」です。今日登場する女執事の対立も又、個人同士の問題ではありません。教会全体で「支え合い、仕え合い、解決していく」問題なのです。パウロ先生は対立する二人の女執事の周りにいる聖徒たちに向けて、「真実な協力者よ」と呼びかけます。「協力者」は(スイズィーゴス)であり、「共に軛を負う者」の意味です。先生は周りの人々に「共に重荷と痛みを担う者となってほしい」と勧めているのです。そして共に神に祈りと願いをささげなさいと語られました。その前節においては、「主において常に喜びなさい」とあります。この意味は、「既に得たりと信ぜよ」の意味と同じです。「主はすぐ近くにおられます」どのような問題が教会を襲う時も主が共におられ、私達は主に守られてきたではないか、主は解決される、信じて祈り持ち望み、既に得たりと「喜びの中にいなさい」の意味です。本日の御言葉は今も多くの教会で起こり続けている問題です。二人が対立していた原因は分かりません。しかし、多くの学者は二人の教会に対する意見の相違や主導権争いがあったのではないかと推察しています。しかし本当のところは分かりません。今もある教会の問題と照らすならば、教会を思う強い思いが、意見の相違となって対立することはあることです。又、キリストの愛を自己中心に捉え、教友に過度な愛を要求する人もいるかも知れません。本教会においても、分裂や葛藤を経験してきました。多くの教友が教会を後にしたことも事実です。私自身もその一人でした。しかし主は守られたのです。私が今、ここに立っているのが証拠です。冒頭にて語った御言葉には「心」が違う言葉で3つ出て来ます。(ノウス)「賢さ」、(カルディア)「心」、(ノエーマ)「策略」です。神の平和は私共の賢さを超えます。私共の祈りは神に届き、私共の嵐吹く心を静かにさせ、悪魔の業である悪い考えを起こさせないように守って下さるのです。私共が神に祈るとき、私共の近くに「平和の神が私達と共におられる」ことを経験します。週報の挿絵はフィリピ書の総括です。私共も又、同じ道を行きます。