「聖 書」
なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
(ヘブライ人への手紙 9章24~28節)
説 教 「救いをもたらすために」
主イエス・キリストは、私共の「罪の贖い」の為に、「ただ一度」身を献げられました。「ただ一度」の意味は、「神の完全」「完全な贖い」「完全な救い」の意です。時が満ち、「神の時」に起こった「歴史的出来事(歴史的客観性)」です。主の十字架の死は「完了した出来事」です。主イエスの御旨に対する「完全な従順」を通して、この「贖い」は成し遂げられました。ですから主は、十字架上で「完了した(成し遂げられた)」(ヨハネ19:30)と言われ、息を引き取られたのです。私共は招かれています。「完全な救い」に招かれています。この救いは、全ての人に開かれている「門(入口)」です。主イエスは、「わたしは門である。」(ヨハネ10:9)と言われました。天の門(入口)です。本日は「幕屋の平面概略図」(別紙)も用意しました。御覧下さい。私共は天国である「エデンの園」から東に追放されました。「エデンの東」です。この「東」は神が不在の場所です。そこには「死」が待ち受けています。イスラエルの人々に「幕屋」が与えられました。「命の回復」する場所です。「神が人と共に住まれる」場所です。幕屋での礼拝(儀式)の順序は、必ず東から西に向けて進みます。これは死から命の回復に向けた順序です。概略図に示された細かな数字や規定にも、全て意味するところがありますが、本日は詳しくは語りません。(出エジプト記25章~を参照)しかし、この幕屋は本日の御言葉が語る如くに、「まことのものの写し」(アンティトポス:模型:コピー)です。「まことのもの」とは「天そのもの」の意です。主イエス・キリストは「まことの神殿」となられました。私共は「真の神殿」である主イエス・キリストを通して、「天国の住人(神と共に住む)」とされるのです。主は祭壇で焼き尽くす献げ物となられました。「完全な従順」の意です。洗盤の「水」は「神の言葉」である「真理」を表します。私共は御言葉を携え、聖所に入ります。机には「命のパン」があり、燭台には「光」があります。命のパンは「神との交わり」を意味します。香壇の正方形は「普遍性」の意でもありますが、「祈りと賛美」を表します。聖所は礼拝の場所なのです。至聖所は大祭司しか入れない場所です。大祭司は自分の贖罪のために「雄牛の血」、民の贖罪のために「雄山羊の血」を振りまき、至聖所を清めます。これは毎年行う儀式でした。現在の私共は「狭い門」(垂れ幕)を通り、福音を信じた誰もが、至聖所に入り、「永遠のいのち」を戴きます。聖霊の内住の事です。「神の箱」に主イエスの血が注がれました。私共は再臨の時、「完全な救い」を迎えます。