11月12日(日)聖日礼拝

「聖 書」

兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。

(テサロニケの信徒への手紙 4章13~14節)

説 教 「希望」

 本日の御言葉の中でパウロは、キリスト者の「希望」について語っています。テサロニケの人々だけではなく、初代教会の頃の人々は「主の再臨は近い」と信じていました。しかし主の再臨はなかなか来ません。その待ち望みの中で、天に召されていく信者が出てきました。このような状況の中で、再臨が来ない間に亡くなった信者はどうなるのかという疑問を抱く人々もいました。テサロニケの人々も同様でした。その疑問に対して、パウロは「希望」という言葉を用いて、信者の死後のことや、再臨のときのことを説明したのが、本日の御言葉です。しかしパウロは、何故見てもいないことを「説明」できるのでしょうか。今、パウロが語っていることを、私達はどのように受け取ればよいのでしょうか。本日パウロが語っていることは「信仰」であるということをまず私達は正しく知る必要があります。「信仰」とは何か。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)パウロは、死について、「希望を持たない人」のようになるなと忠告しています。つまり、あなたがたはキリストによる信仰によって「希望」を持ちなさいと勧めているのです。パウロの語っていることは、「希望」なのです。しかし、それは空虚な希望ではありません。信仰によって、「見えない事実を確認」しているのです。ですからパウロは、キリスト者の根幹である「復活」のことでも「イエスが死んで復活されたと、わたしたち(キリスト者)は『信じています。』」と語っています。本日、皆様に聴きとっていただきたいことは、信仰は観念や知識ではないということです。知識だけでは、バイクやスノーボードを操ることができないように、信仰もまた同じです。バイクはハンドルで曲がるのではありません。バイクに身を委ねて遠心力を利用してカーブを切ります。曲がることができないと体を逆らわすと事故を招きます。信仰は知識を頼りにするのではなく、聖霊に身を委ねる時に、霊の目が開かれていきます。ここには「信じる」という共通点があります。パウロの語る言葉が古代人の世界観が表れていることは否めないでしょう。しかし真実な信仰者、真実な使徒としての「真理」は私達に希望を指し示してくれています。私達キリスト者は必ず復活する。主と相まみえる日が来る。先に召された者と再会する。これは希望ですが事実です。その証拠は臨在の主御自身です。私達も又、再臨の希望に生きる民です。今を信仰に生き、未来を信じ、「信仰、希望、愛」の中を主と共に歩んでいきます。