11月19日(日)聖日礼拝

「聖 書」

兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

(テサロニケの信徒への手紙 5章1~6節)

説 教 「光の子」

今年の終末主日は今月の27日です。それを終えると待降節に入ります。教会歴の終わりと初めが結ばれ、「暦」がループとなります。ですから、この時期は終末を示す御言葉が読まれます。本日の御言葉も勿論それに倣っています。本日の説教題は「光の子」ですが、ここに示される「光」は「キリストの光」のことです。キリストの光を身に受け、その生涯を歩む者は、終末にも神の前で安んじていることができるという、パウロの慰めの言葉です。パウロはテサロニケの人々に、終末に対して無用な心配をしないで、信仰者として「今」を大切に生きなさいと勧めているのです。パウロの言葉に戻りましょう。「兄弟たち、あなたがたは暗闇に中にいるのではありません。ですから、主の日が盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。」パウロは、「主の日が突然あなたがた(信仰者)を襲うことはない」と教えました。それは何故でしょう。それはキリスト者は「昼の子」であり、「光の子」であるからです。キリストに対して、目を覚ましている「昼の子」であるからです。「昼の子」は目を覚ましているだけではありません。キリストを信じ、御言葉を受け入れ、キリストの光を身に受けて、「光の子」とされています。本日、最も聴かなくてはならないことはここです。「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。」私達が立派な信仰者(フィリピ4:8の語る品性)であるから、終末を恐れなくても良いと言っているのではありません。キリストを信じ、キリストに従い、キリストに希望を持ち、キリストを待ち望んでいる、キリストの光を身に受けている者(光の子)であるから、終末を恐れなくても良いとパウロは語っているのです。これは待降節を待ち望む信仰者の思いと同じものです。あの冬至の頃に太陽の復活を記念した祭りを、キリスト教が「クリスマス」に取り入れたように、たとえ、この世を闇が支配する時期であっても、キリストが来られるという「喜び」が内にあるならば、闇夜も闇夜でなくなり、希望の光が満ちてくるでありましょう。それは「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません」と同じ意味です。私達は「光の子」であるならば、終末に対しても「希望の光」を持つ者であります。このことを通してパウロの伝えたかった意味がお分かりになるでしょう。この続きは礼拝にて語ることと致します。ただ、その答えは記しておきます。「光の子」とは、自分の弱さを認め、ただ主のみを畏れて、主に従い、悪魔の支配に打ち勝つ者のことです。隣人に光を与える者です。