「聖 書」
光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
(コロサイの信徒への手紙 1章12~20節)
説 教「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して」
本日はキリスト教暦の最終週です。「終末主日」「収穫感謝日主日」であり、「王であるキリスト主日」です。私共は、この一年間を振り返り、主の数々の恵みを覚える者でありたいと願います。私共は闇の力に支配されていました。いえ、今も闇の勢力はあると言われる方もおられるでしょう。しかし主は既に闇の力に打ち勝たれたのです。それは十字架の贖いの恵みの故です。先週に私は良い説教を聞きました。その先生はレビ記の「贖罪の献げ物」の箇所を解き明かしして下さいました。レビ記には三つの「献げ物」があると言われました。一つは「贖罪」です。「贖罪の献げ物」の神に献げることができない物は「ことごとく宿営の外の清い場所である焼却場」で焼き捨てます。この「焼却場」で焼き捨てるものは「罪」であり、この場所は「カルバリ」であると、先生は言われました。三つの「献げ物」とは「贖罪(清め)」「全焼(献身)」「和解(交わり)」のことであり、これは主イエスの為された「業」(型)のことであると語られたのです。私共は主イエスの愛を信じ受け入れる時に、罪が赦され、闇の力から救い出され、神との交わりの中に招き入れられています。本日の御言葉の15節から20節までは「キリスト賛歌」です。原始教会で読まれていた「式文」です。パウロ先生の創作ではありません。原始教会の聖徒たちが経験していた信仰であり、「信仰告白」なのです。主イエスは「見えない神の姿(イコン=うつし)」であり、神御自身である。私共も、この信仰に招かれています。私共は光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかっています。先週に紹介した二人の聖徒のことを思い出して下さい。主を個の救い主として受け入れたボンヘッファー、内住のキリストを経験したソーントン宣教師、どちらもが永遠に取り去ることのない「平安」を得ました。これが神との「和解」の姿です。私は、この一年を振り返るとき、この神の和解「平安」が常にあり続けたことに感謝を捧げています。ユーチューブを始め、イスラエル取材旅行に行きました。三浦兄弟が献身に招かれました。「聖霊聖会」を感謝の内に続けることができました。神の奇跡の連続を見ました。「100周年記念」が守られました。活水の群との交わりが深められ、役割が与えられるようになりました。本教会が認知されるようになりました。地域に応える集会を持つことができました。祈祷名簿が用いられ、互いに祈る恵みが与えられました。皆様の祈りに支えられて私も健康が守られ、感謝です。恵みは数知れずあります。一番の恵みは主の臨在があったことです。