11月26日(日)聖日礼拝

「聖 書」

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしてときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ね下でしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

(マタイによる福音書 25章31~46節)

説 教 「わたしの父に祝福された人たち」

本日は「終末主日」です。御言葉は「主の日」を告げるものが読まれます。「主の日」は小見出しに記されているように「裁き(最後の事物)の日」です。ユダヤ思想で語るならば、「主が聖者らを弁護し、正しい世界秩序(神の国)を回復する時」のことです。本日の御言葉で、主御自身が「主の日」には、正しい人たち(聖者)と、そうでない人たちが羊と山羊を分けるように、選り分けられると語られています。では、その分ける決め手は何なのでしょうか。それは、「最も小さい者に(主イエスに対するように)憐れみをかけた」かどうかです。これは善行を積めば天国に入れるという意味ではありません。(マタイ7:21)に「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。」の箇所にも同様のことが書かれています。そのところには、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」とも語られます。「父の御心」とは何か。それは「天の父の憐れみ」のことです。(マタイ18:21~35)で語られた「たとえ」においても、神の憐れみを受けた者が感謝を生き「神の憐れみを生きる」大切さが語られています。これはキリスト者の人生が語られていることも皆様が了解されるでしょう。私共、十字架の贖いを信じ、救われた者の人生は「祝福」です。本日の御言葉にも「わたしの父に祝福された人たち」と語られています。私共が主イエスから日々に受ける愛は、私共を主イエスに似る者へと変えます。日々、祈りと感謝を捧げ、「御心(父の憐れみ)」に生きたいと願う者へと変えられていくのです。「父の憐れみを生きる」ことが日常になるのです。日常は覚えていません。御言葉の如くです。私は本日この事だけを伝えに参りました。西宮教会は、そこに集う者は「御子の父に祝福された人たち」です。私は西宮教会を出て、15年が経ちました。私は西宮教会が大切でした。出て思うことは、この「小さな者」を愛し、大切にして下さった感謝です。私は西宮教会で経験してきたことを他の人たちに、今、仕える教会並びに他の教会に広げていく幻を与えられています。「牧師とされる」やっと確信を得ています。今まで私が仕えてきた人々(写真)が教えてくれました。人生には必ず終わりが来る。「主の日」は皆が、神の前に立つこと。被造物には「救い(十字架)」が与えられていること。召命から逃げてから不思議の連続でした。困難や悲しみを通るも、祝福を失うことはありませんでした。私共には天国を語る多くの先達がいます。感謝します。