「聖 書」
人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も。このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
(マタイによる福音書 24章37~44節)
説 教「だから、あなたがたも用意していなさい」
先週に暦の結びである「収穫感謝日」を迎えました。本日は「待降節第一主日」です。キリスト教暦の新しい一年が始まります。私共は先週に、私共信仰者の「収穫」は「霊の命」であると申し上げました。この「命」は神の恵みの中を生き続ける時に、更に豊かな実を結びます。本日の御言葉はマルコ書を底本としながらも、マタイ書の編集意図された「小黙示録」となっています。人の子(再臨のキリスト)の到来の時に備えて、「目を覚ましていなさい」は同じ文言です。しかしマタイ書には、「ノア」のことが挿入されています。マタイは終末に備えて、「ノアに学ぶ」ことを勧めているのです。本日の御言葉を御覧下さい。(43,44節)「(命が盗まれないように)目を覚ましていなさい」「だから、あなたがたも用意していなさい」と結んでいます。何に対して目を覚まし、何を用意しておけば良いのでしょうか。まずマタイが学べと言う「ノア」がどのような人物であったのかを見ておきましょう。創世記6章に、ノアの物語が記されています。そこには、「これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」とあります。目を覚ましておくとは「神と共に歩む」ともとれるでしょう。この答えは正しいものですが深みが足りません。この意味は「聖なる命を生きる」が正しいものです。洪水後の出来事で、泥酔し、裸で寝ていたノアに対する息子たちの行為に対して、意味深長なノアの発言があります。息子ハムの神の権威への反逆に対して、カナンが呪われるという件です。これはカナン侵攻を正当化するための「後付け」の挿入句ではありません。話が進み、カナン侵攻の中で「聖絶せよ」の神の言葉もまた、命を守る愛の言葉です。神に対する「反逆」は命を失う結果を招くと言うことを聖書は語り続けています。人は神に反逆し続ける故に死を招きます。現にハムの家系は「バビロン化」し、滅びの歴史を踏みました。本日は午後に「聖霊聖会」がもたれます。講師の飯田先生は、デボーションや早天祈祷会を重んじておられます。岩間先生は御言葉を大切にしておられます。私も日々に聖霊の内住に身を委ね、キリストに身を明け渡しています。これらのことは、「聖霊の恵みの体験」です。アドベントの良き時、キリストが来て下さる恵みの意味を思いましょう。私共は罪人でした。いえ今も罪人です。そんな私共を今も洗い清め続けて下さる主。目を覚ましていましょう。そして用意しておきましょう。私共は神に感謝し、恵みの中を生きています。主よ、来て下さいと。