11月5日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも、負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。

(テサロニケの信徒への手紙  2章7~13節)

説 教 「夜も昼も働きながら」

 本日の御言葉にはパウロの「使徒」としての真骨頂が語られています。彼は1章において、テサロニケの信徒の人々に向けて、「あなたがたは信者の模範となっている」と語り、その信仰にパウロ自身が励まされているということを彼等に伝えました。そして次章においては、パウロ自身の信仰を語ったのです。そのことを一言で語る言葉が、「夜も昼も働きながら」です。これは手ずから働いてテサロニケの信徒の負担を軽くしたという意味ではないかと言われると思います。それは勿論そのような意味でパウロは語っていますが、彼が語り伝えたかった意味を探ることが本日の解き明かしです。また、その真実の意味が「使徒の真骨頂」を語っているのです。何故、パウロはテサロニケの人々の世話にならず、自分の生活の糧を「自給」したのでしょうか。その理由は彼等を愛する「愛」のゆえです。そしてもう一つの理由が、「福音」は「言葉」でなく、「行動」であるからです。このことについては、イエス御自身がマタイ書23章において語っておられます。「彼ら(律法学者やファリサイ派の人々)の行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」これは信仰は「言葉や知識」ではなく、「行動や霊の働き」であるという意味です。そして続けてイエスは、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」と言われました。彼らの不真実な信仰を批判し、逆に真実な「信仰」は「愛」を伴うものであると教えられているのです。パウロは彼等を愛するゆえに「夜も昼も働きながら宣教」しています。それは彼等の負担を軽くするだけではなく、自分を見倣ってほしいからです。その意味はイエスの語られたマタイ書23章の逆の姿です。その逆の姿こそ、「使徒の真骨頂の姿」なのです。神は全てのものを創造されました。神は愛です。にも拘らず、人が兄弟の関係を放棄し、冷たいものなったら、それは神の不在であり、愛のない「死の世界」です。パウロは使徒として、福音を携え、「愛の回復」を身をもって実践しているのです。母の愛や父の愛のように、彼等を愛してやまないパウロの使徒としての「愛」が彼等を支え続ける「行動」へと駆り立てているのです。そして、その愛の姿にテサロニケの信徒は「神の言葉」を見たのです。そして、彼の言葉を神の言葉として受け入れ、今、パウロを見倣う「信者の模範」となるに至ったのです。私達も又、パウロの信仰の姿に倣います。信仰を行動として生きるのです。