11月5日(日)聖日礼拝

「聖 書」

あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。

このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。

(テサロニケの信徒への手紙 一 2章6~13節)

説 教 「神は招いておられます」

「聖霊聖会」ご苦労様でした。恵まれました。江里口兄の証しは素晴らしいと感謝しました。また、坊向先生の会の始まる前の「祈りの姿」は改めて、私共の群れは「活水」であることを思わされました。懐かしさと共に、気が引き締まる思いがしました。私共は「祈り」の伝統を引き継いでいる教会であることを感謝して受け止めました。さて本日の御言葉は、先週の続きです。先週、御言葉は、「先達に倣い、主に倣う者となる」信仰の大切さを語っていました。「聖霊聖会」は、そのことを確認する出来事であったと思います。「出来事となった」(聖霊の働き)を強く確信しました。江里口兄の証しが語っていた如くに、信仰者にも困難は訪れます。信者となったから、全てが楽になるわけでもありません。しかし兄弟は、それでもなお、キリスト者であることを証ししています。キリストの愛が兄弟を支え続け、主を思う心が彼を離れないのです。本日のパウロ先生の言葉も同じことを語っています。「(わたしは)人間の誉れを求めませんでした。」パウロ先生は主から福音を託されています。(ピスチューセーナイ:委ねる(信じて任せる))先生は心の中をも神に吟味され(偽善は通用しない)つつ、なお神に喜んでいただく道を常に歩もうと励んでいます。先生が神に委ねきり、「通り良き管」とされている証拠は、先生の行動に現れています。先生はテサロニケの人々に対して、母のように温かく包み込む愛と、父のように権威ある愛による指導と牧会を心がけているからです。使徒は単に福音の提供者というだけではなく、至高で無私の母のような愛の提供者でもあったのです。この意味は彼らが人格者であったという意味ではありません。彼らは無力で、弱く、小さきただの罪人です。そのことを良く知る彼らは、主の霊である聖霊を受けたのです。罪に死に、己に死に、ただ主の喜ばれる道を求めました。父の御心のみを生きたのです。父の御心を生きることが適うならば、神が愛である以上、弟子の道は「愛」しかありません。パウロ先生は、その道を行きました。先生は神の言葉を語りました。彼らは「神の言葉」として受け取りました。このことは当たり前ではありません。素晴らしいことです。彼らが神の言葉として受け取ることを通して、神の力は彼らの中で働きました。そのことをよく知っていた先生は教えられたのです。「御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」神は永遠を与えることを願っています。