11月6日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。

(ルカによる福音書 20章27~38節)

「すべての人は、神によって生きている」

本日は「すべての人は、神によって生きている」と語られた主の言葉の意を悟りたいと願います。ここで語られる「生きる」は(ゾーエー)です。私共に本来与えられている「永遠の命」のことです。しかし私共は神から離れ、罪の内に生まれた結果、「本来あるべきところから離れて、力を発揮できない状態」(アポリューミ)にあります。その死後は、神の命を失っている結果、「永遠の死」が待っています。キリストは「失われた(アポリューミ)罪人(ハマルトス:的外れ)」を探し出し、救い出す(永遠の命に立ち帰らす)為に、世に来られました。しかし人々の全てが「神の救い」につまずいたのです。しかし主は不信仰の問答を仕掛けるサドカイ派の人々にも「真理」を語り、「神の永遠」を示したのです。(基となる説教は2010.11.7、2013.11.10、2016.11.6を参照下さい。)主を裏切った弟子たちも又、復活の主に出会い、聖霊体験を通して、主イエスの言葉の真実を悟ることが出来ました。私共キリスト者とされた者も又、「永遠の命」を悟る者とされる必要があります。私は「悟る者とされる必要がある」と今、申し上げました。これは「受動」なのです。35節に「復活するのにふさわしいとされた人々」とあります。「ふさわしい」は(カタキオウ)で「神の国にふさわしい者とされる」の意味です。(アオリスト受動形)で記されています。「復活にふさわしい者」とは、「神が選び、救い、復活するにふさわしい者となるまで関わり続ける」という「神の愛の決意」です。この体験は、次の御言葉が証ししています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)この続きにパウロ先生は「今、わたしが肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」パウロ先生は厳しい迫害の中で「永遠」を生きています。主イエスは「柴」の箇所の言葉の中から「神は生きている者の神である」と言われました。アブラハム達は死んでいないと言われたのです。復活の命に与る者は永遠に生きる存在となるので娶らないのです。復活にふさわしい者とされた者には永遠があります。今、「ここに」あるのです。主は「わたしはまことのぶどうの木」であると言われました。全ての人は神によって生きています。しかし復活の命は「主につながり、愛の実を結ぶ」命の中にあります。共に永遠を生きましょう