11月9日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるであしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

(コリントの信徒への手紙 一 3章9~17節)

説 教「神の霊が自分たちの内に住んでいる」

「福音功労賞」の授賞式に行ってまいりました。私は務めの責務よりも自分の弱さの方が心配でした。しかし私は先週の説教の中で、私の弱さを主が平安に変えて下さると告白しておりました。まことにその通りになりました。往きの飛行機がピカチュー機で小さな子供が多く乗っていました。孫のためにはカッコをつけなければ、子供は守らなくてはという気持ちが働いて、平安が訪れました。復路の機内では岩間先生に長い証しを聞いて戴いて、平安の中、過ごしました。神は生きておられます。祈りは必ず聞かれます。先週は二人の先生のお証しを通して「共におられる主」を仰ぎました。本日は私の証しを通しても「臨在の主が共におられる」ことを確信していただきたいと願います。市川での授賞式でした。キリスト教界では著名な方々が集まっておられました。私は会の中で「主を捜し」ました。主は、どこにもおられませんでした。3章の1~8節にて記された「肉の人」を感じました。しかし結論から語りますと、灯台下暗しで、主は私共のグループにおられました。小平照夫先生の発案で「阪神宣教祈祷会」が功労賞の「副賞」をいただきました。息子さんの牧生師の挨拶や宣教祈祷会を代表して会の顧問である大橋秀夫先生がされたスピーチの中で、「神のために力を合わせて働く」大切さが語られました。大橋先生は日本各地で活躍をされ、キリスト教界に足跡を残された方です。その方が、「阪神宣教祈祷会」の大切さを語られました。牧師は孤独である。自分の教会にのみ目を向け汲々とされている。私も同じ弱さを抱えていた牧師の一人だった。そんな弱い私を支え、会に加えて下さり、牧師の交わりの中で霊の力をいただいた。私は活力を得て、神の働きに仕え続けることができた。先生の言葉の一つ一つが、私に迫ります。主は私共のグループの中に確かに「共におられ」ました。先生は、この素敵なスピーチの冒頭で髙橋文蔵先生を語って下さいました。私共は主の臨在の中にいます。私共は永々と続く神の民です。本日の御言葉でパウロ先生は、私共は「神の」畑、「神の」建物であると教えて下さいました。この「神の」は所有格です。私共は「神のもの」なのです。この「神の畑」では何が実るか。それは、エゼキエル47:12に記されています。このところの御言葉は「神殿」の下から湧き上がってくる「命の水」が畑に命を与えることが記されています。実る実と葉は有用なものとなると語られています。私共の内(ミドゥスト:奥深く)に聖霊が住んでおられます。神の栄光が全てです。私共は神の神殿として実りましょう。